漱石論を解説する。


大学の試験が終わり、採点して成績をつける作業に追われる日々である。講義が一段落したからこの日記も色々書き込めるかと思ったが、ルーティンワークから解放されると却って書くことがない。大学卒業直後のわずか4ヶ月間、週5日、朝出勤して夕方退社するというフツーの労働をしていたことがあるが、そのときも行き帰りの電車ではマックス・ウェーバーを読んだりしていた。時間がないときの方が、わずかな自由時間を無駄にしたくないという気持ちが働き、頭が活性化するようである。少しでも余裕ができると、物を考えないダメ人間になってしまうので、どうもいけない。やっぱり、コンスタントに仕事をしているくらいがちょうどいいんだろうな。って、ぜんぜん反資本主義じゃねーじゃん。勤勉じゃん。搾取されてんじゃん。まいっか。

ちなみに、その4ヶ月間お世話になった職場で一緒だった若い社員の男性に「大岡さんは音楽なんて聞くの?」と聞かれ、そのときはエリック・ドルフィーを聞いていたので「ジャズはよく聞きますね」と答えたら、「ジャズ?! 変わってるねー!」と驚かれ、こっちが面食らってしまった。大学では、私などが「ジャズが好き」と口にしようものなら、ジャズ研あたりの友人に鼻で笑われてしまったであろうが、世間では「ジャズ」すなわち「変人が聞く音楽」なのだ! 今考えれば、学生仲間や芝居仲間からなる狭い世界の外に触れたのは、あれが最初の経験だったかもしれない。本当は「フリー・インプロヴィゼーションと現代音楽を聞きます」と答えたかったのだが、言わなくてよかった。外国語を喋っていると受け取られただろう。世間が受容できるのは、たぶん当時では「米米クラブ」とか、そういうものだったに違いない。いやあ働くって大変だなあ、と痛感したのを覚えている。

それにしても、ルーティンワークをこなす日々を過ごしていると、毎日仕事が終わった後に芝居や映画やコンサートに出かける体力的余裕は、ほとんど残っていない。イレギュラーな予定を入れると、どこかにツケが回ってしまうという危惧もあり、なるべく早く帰宅しようという気分になる。こんな単純なことも、私は自分がまともに働くようになって初めて理解できたのである。大人の男が劇場にやってこないのはなぜか長年疑問に思っていたが、たかがこれだけのことだったのだ。とすると、若い社員が進んでサービス残業をこなしてしまうような現状が変わらない限り、演劇なんぞはそれこそ、お気楽な派遣社員やフリーターや大学生のみを顧客とする、ごくごくマイナーなジャンルにとどまるだろう。そこへいくと、本というメディアは、忙しくても手軽にアクセスできるという点でやはり優れている。

さて今日は、大検予備校で夏の現代文演習&小論文指導の日だったのでちょいと久々に出かけたが、直接学生を相手にする仕事はやっぱり楽しい。現代文演習は、ふだんは数名の学生を相手にゼミ形式でおこなう授業なのだが、今日は夏休みに入っているからか、ひやかしで聴きにきた学生もいたようて20名も集まり、結局広い教室で一斉授業をやることになってしまった。石原千秋氏の夏目漱石論を扱った問題を解かせる。「漱石の小説に登場する高等遊民」というテーマで雑談。「それから」のヒロインが、主人公のもとに駆けつけて、活けてある花を抜いて花瓶の水を飲んでしまう場面をふと思い出し、あれは大人のエロスだねえ、漱石はやっぱり凄いねえ、などと、深みのない解説を試みる。こういう雑談がきっかけになって、実際に漱石を読む学生がひとりふたりいてくれるとやりがいがあるんだけど、どうだろうな。太宰治の「カチカチ山」をやったときは、読もうとしていた学生がいたけど、大岡昇平の「武蔵野夫人」をやったときは、さすがに誰も読もうとは思わなかったようだ(笑)。

夜、ジョルジュ・アペルギスのレクチャー&コンサートを聴きに、日仏会館へ。バリトンのソロによる朗唱「14のジャクタシオン」。最小単位にまで分解された言葉の連なりが、意味を生成せず〈音〉として次々に継起する、迫力あるパフォーマンス。アペルギスは既にCDで親しんでおり、私はファンである。今日の作品もなかなか面白かったが、でもこれって、歌手の身体性が露出するところまで含めて足立智美の芸風と同じだよなあ、などと思うにつけ、あまり新鮮さを感じることはできなかった。しかし、ところどころ魅力的なメロディが横切ってゆくところは、ハッとさせられた。さすがである。

ところで、「劇評サイトWonderland」さんからリンクしていただきました。どうもありがとうございます。面白く丁寧な劇評が並んでいて、好感の持てるリンクサイトですね。http://wonderland.tinyalice.net/cgi/mt/archives/000066.html