高遠菜穂子さんの講演を聴く。


「イラク市民と語る~私たちにできること」と題された講演会を聞きに、中野ZEROホールへ。お目当てはもちろん、イラクで武装グループに人質として拘束された、高遠菜穂子さんのお話「私のイラクノート」である。既に報道もされているが、最も印象深かったのはやはり次の一節である。

「イラクの友人たちの前で、私は、“アメリカが悪い”とは一度も言うことはできなかった。もし私がそう言ってしまうと、彼らはきっと“そうだろ?!”と応じ、ますます憎悪をかきたてられ、報復の連鎖には終わりがなくなってしまうから。報復ではなく、もっと建設的なことにとりくむべきだ、イラク人は誇り高い民族だと言うのなら、その誇りを今こそ見せてほしい……」

時折、涙で声を詰まらせながら淡々と語られたその内容は、しかし決して感情的でも感傷的でもなく、極めて冷静な状況認識であると思えた。さすがに、彼女は筋金入りのアクティヴィストである。その発言は現場的なリアリズムによって貫かれており、「ブッシュ辞めろ」式の能天気な平和主義とは全く無縁である。だが同時にそこには、イラクの将来を見据えた一片の理想がこめられてもいる。

対するに、自己責任論や自作自演説をヒステリックに叫んだ「普通の人」には、いったいどんな主張があったのだろう。なぜ彼らは、自衛隊の軍事行動(あれがただの人道支援だとしたら、3人の人質がやっていることと大差がなくなってしまうから、やっぱり「普通の人」にしてみれば軍事行動なのだろう)に水をさすなと叫んだのか。要するに「北朝鮮から日本を守って下さるアメリカ様のお手伝いだから」ということしかあるまい。損得勘定以外の何物でもないのだ。別に他人に押しつけているわけでもない3人の人質の道徳心を、「プロ市民うざい」「共産党の手先め恥を知れ」「飛行機代払え」などと罵ることが許されるほどに、道徳心に比して損得勘定というのは大切なものなのか。では、そのアメリカ様はなぜイラクで戦争をしたか。もちろん石油の確保という損得勘定に発したことは間違いないが、それでも建前上は「イラクを独裁から解放し民主化するため」だ。どこかおかしくはないか、「普通の人」よ。ブッシュもフセインも、「この世は損得勘定が全てだ」などと言ってはいない。少なくとも建前としては「損得勘定を越えるもの」が大切だと言っており、そして双方が「損得勘定を越えるもの」を死守しようとするがゆえに、戦争を避けることはできなかった。「損得勘定が全てだ、国益が優先だ、それ以外は欺瞞だ」などと大声を張り上げているのは、日本の「普通の人」だけだ。事実パウエル国務長官が、人質たちを非難してはいけない、と日本の論調を諌めたではないか。あれは、他国を手助けしようとする大義に従う一点において、米軍の兵隊さんも日本のボランティアも同等だという意味だろう。「普通の人」よ、人助けをする人間は皆、本当は他人から誉められたい目立ちたがり屋で、欺瞞のカタマリに過ぎないのだろうか。ではあなたは、精神的に参ったとき、病に倒れたとき、トラブルに巻き込まれたとき、他人に助けてもらって感謝した経験は皆無なのか? それとも、感謝しつつも心の底では「本当は自分のエゴを満たすために助けてくれただけだよな」と嘲笑っていたのか? それは、むしろ君自身の精神的退廃ではないのか???

脱線した。高遠さんのロジックを、ここで私は勝手に敷衍してみたい。先の発言を政治的な態度表明へと翻訳するなら、だいたい次のような結論に到達するのではないか。すなわち、アメリカが仕かけた戦争がどれほど正当性を欠いたものであったとしても、少なくともイラク人は、フセイン大統領という残虐な独裁者を自分たちの手で倒し、自分たちで新たな政治体制を構築することはできなかったという事実は残る。米軍による介入なしに、イラクの民主化は成り立たなかった。それがイラクの背負ったトラウマだ。本当は、軍事介入される以前に、アメリカも手の出しようがない民主国家へと転生すべきだったのだ。それができない以上、現状では、アメリカという帝国に服属しつつ、新生イラクを建設する途を探る他はない--。

どうだろう。これは、イラク戦争をめぐる議論の中でも相当に上質な見解ではないだろうか。そして、このように敷衍してしまえば、実効性を欠く理想主義も道義を欠く現実主義も、高遠菜穂子という人の選ぶところではないと気づく。彼女は、敢えて「反米」にも「親米」にも与しない隘路を辿ることによって希望を見出そうとしているように、私の目には映る。現場的な知性とはこうしたものではないだろうか。

帰宅してテレビをつけたら「高遠菜穂子さんが都内で講演」「人質事件の詳細は明らかにされず」「今後については未定」とだけ報道されていた。マスコミってのも、因果な商売だねえ……。