川越の大学で「文章表現法」。今日のテキストは「ヒトラーは、人民を抑圧して登場したわけではさらさらなく、失業を解消し、人々に生きがいを与え、圧倒的な支持を得た指導者であった」という内容で、私などは面白いと思う文章なのだが、学生たちは全く食いついてこない。ただでさえ乏しい集中力がますます低下して、お喋りする馬鹿も出る始末。今日は仙川の授業がもう終わっているので、それなりに準備して臨むことができたのだが、空回りで終わってしまった。

ここの学生たちは、歴史を扱ったテキストとなると、もう全く興味が持てなくなってしまうようだ。確かに、「ナチズムはワイマールの民主主義を基盤として生まれた」といった類の議論は、「民主主義=善」「ファシズム=悪」という刷り込みがある人にとってはインパクトがあるだろうが、そもそもここの学生は「民主主義=善」も「ファシズム=悪」も頭の中にないから、「ふ~ん」という以外のリアクションをとりようがない。ここから一つわかるのは、保守派がしばしば主張する「戦後民主主義が日本の教育をダメにした」式の議論は、全くナンセンスだということだ。国公立大学や有名私大に入学するような学生ならともかくも、それ以外の過半の学生に接している限り、「民主主義」など全く根づいてはいない。いまどきの若者は、自我が肥大しており、公共心を喪失していると保守派は言う。そういう観察が誤っているとは私は思わないが、その原因を特定のイデオロギーの浸透に求めるのは笑止である。若者の自我が肥大してしまったことに理由があるとすれば、それは別に「民主主義」「日教組」「朝日新聞」のせいではなく、労働者としての規律を叩き込まれる以前に、消費者として優遇され、欲望を刺激されてしまうからだろう。全国のファミレスやコンビニやファストフードや居酒屋やカラオケ店で、店員がお客である若者に向かって「君たち、お客だからといって何でも許されるわけではない。人に迷惑をかけることはやめなさい」と粗暴な態度を叱り飛ばしたら、いったいどうなるか。ただでさえ不況の日本経済はたちまち失速し、保守派知識人なんぞは、パトロンを失って路頭に迷うだろう。保守派の諸君は認めたくないだろうが、問題の根は資本主義にあるのだ。

とりわけ日本の現状では、「女・子ども」は消費する側、「大人の男」は生産する側という役割分担が、人心を歪めてしまっていると私は思う。「女・子ども」がもっと生産の現場に参加でき、そのぶん、「大人の男」は過剰労働から解放されるようにすれば、誰もがバランスよく生産と消費、労働と余暇を往還できて、社会性も身につくのではないかと思うのだけれど。内需だって拡大するのではないか? 生産効率が低下してしまうから、経営者からすれば論外か?

教育というジャンルに関わっていて私が確信するのは、人間は、家庭でも学校でもなく、職場で育つ生き物ではないかということだ。その意味で、日本的経営が解体しOJTが機能せず、人材育成はアウトソーシングされ、中途採用でも何でもいいから即戦力をほしがる企業社会の現状は、日本社会に深刻な危機をもたらすかもしれない。一方で、フリーターは300万人から400万人も存在すると言われている。高度成長期のような拡大成長が見込めず雇用が逼迫する状況で、「正社員」と「パート・アルバイト・派遣」との格差が開きつつある。「大人の男」と「女・子ども」との格差と言ってもよい。このままいけば、10年後20年後には「会社」という共同体が崩壊してしまうかもしれない。従って、この格差をどう埋めるかということは、本当は国策として解決すべきことだ。教育現場にできることは、場当たりの弥縫策でしかない。