詩を身体で表現する。


藤沢総合高校「演劇表現」。前半は、岩田宏の詩「べろんぐの詩」を、チーム毎に朗誦。朗誦のスタイルを工夫し、簡単な身ぶりを入れるよう指示。非常にユーモラスな詩なので、各チームとも面白く仕上げていた。

後半は、昨日桐朋短大「身体表現法」でも取り上げた、中原中也の詩「サーカス」をモーション・ポエトリーで表現してもらう。こちらは、前半と違って各チームともお手上げ。今日は前期の最終回であり、こんなふうに達成感のないままに終わるわけにはいかないので、本当はこういうことはやるべきではないのだが、仕方なく私がサインマイムで「サーカス」を演じて終わりにした。サインマイムというのは、手話の表現を利用し、両手の動き・表情・全身の動きを駆使して描かれる詩、とでもいえばいいだろうか。以前、日本ろう者劇団の井崎哲也さんのサインマイム・ワークショップを受けた後で、「ベルリン・天使の詩」というサインマイムを作ったことがある。あれもサーカスが登場するので、空中ブランコの描写はそのまま利用した。久々にやったのであまり巧くできなかった。手話もそうだが、サインマイムはもっと練習したい。身一つでできるパフォーマンスという点で自分に向いているという気がするし、のみならず、これからの俳優訓練のありかたを示唆するところがあると思うからだ。

授業終了後、チーム・ティーチングで参加してもらっているS先生と、なぜ「サーカス」はうまくいかなかったのか意見交換。だいたい今の子たちはサーカスなんて見たことないんじゃないかなあ、とS先生。確かにそうだ。玉乗りとか道化とか動物の曲芸とか空中ブランコとか、サーカスというのはイメージの宝庫であるはずだが(当然そういうものを見せてくれるんじゃないかと期待したから「サーカス」という詩を選んだわけだが)、これが裏目に出てしまったようだ。そしてもう一つ、もっと根本的な問題がある。それは、この授業を選択している積極的な子たちですら、詩の味わい方がわからなくなっているということだ。詩的精神の喪失。それは、決して近視眼的に語るべき問題ではなく、日本近代を貫く宿痾といってもいいくらいの大問題である。物心ついてからほとんど散文ばかりを黙読して育つ近代日本人は、物事を散文的にしか認識できなくなっている。それは歴史的に遡れば、言文一致によって書き言葉から韻律が失われた結果であろう。「声に出して読みたい日本語」のような、反動的教育が人気を博することにはそれなりの根拠がある。

この問題は、いくらでも掘り下げることができる。というか、今日の帰りの電車であれこれ考えているうちに、私がぶつかってきた様々な問題がこの「日本近代における詩的精神の喪失」というテーマに集約できるということに気づいたのだ! ユーレカ! 今後、どうすればこのテーマを追究することができるだろうか。とにかく時間が必要だなあ。