「カタストロフィ」を演じる。


藤沢総合高校「演劇表現」。今日は、引き続き脚本にチャレンジということで、3チームにわかれてサミュエル・ベケットの戯曲「カタストロフィ」を練習し、時間内に発表にまで持ち込んだ。

チェコの劇作家ヴァーツラフ・ハヴェル(ビロード革命の後に大統領になった)が当局に拘束されたときに、西側の知識人たちが結束して抗議したのだが、たしかそのときに書かれたのがこの「カタストロフィ」である。ベケットにしては珍しく政治的モチーフを表に出した作品ということになる(ちなみにもう一つの例外が、やはり短編戯曲である「なに どこ」であろう)。共産主義における言論弾圧の様相が、なんとも辛辣にして絶妙なことに、「演劇」というアレゴリーによって描かれる。独裁的な演出家(党幹部であることが示唆されている)が演出助手を手足として、発話の自由を奪われた俳優をサディスティックに弄ぶが、最後の最後(カタストロフィ)にその俳優が顔を上げ眼差しを客席に向けると、喝采していた観客たちは思わず沈黙してしまう。わずか10分程度の寸劇なのだが、多義的な解釈ができる優れた作品であり、これまでも何度かワークショップで挑戦したことがある。私などにしてみれば、「劇場とは監獄のような場ではないか?」という問題提起を孕んでいるように思われ、小気味がよいのである。本当に、ベケットというのは大した劇作家だ。

不思議なことに、演じ手によって色々なやりかたが生まれるのも、この戯曲の特徴である。「演劇とはなにか?」という問いにどこかで触れてしまう戯曲だから、演じ手各々のスタンスが自然と滲み出るのかもしれない。やはり今日も、3チームとも全くニュアンスの異なる芝居に仕上げていて面白かった。特に2つ目のチームが、演出家が俳優に腕を組ませる場面で、クリスチャンの祈りのポーズを取らせたのは衝撃的だった。2年生のMさんのアイデアらしいが、凄いことを考える高校生がいるものである。政治的・芸術的寓話が宗教的寓話にも見えるという仕掛けである。昔スガ秀実氏が、専門学校(ジャナ専?)でもドゥルーズ=ガタリのような現代思想をどんどん教えればいいと言っていて、ずいぶん乱暴な議論だと感じたが、まあ私が高校の授業にベケットを導入するようなやりかたでなら可能かもしれないね(えっへん)。

そういえば、神奈川芸術文化財団のベケット・ワークショップの試演会で、この戯曲を上演したこともあったなあ。もう7年前の話である。あのときですら私は知る人ぞ知る超マイナー演出家であったが、7年経ってみたら、マイナーどころかもう演劇業界の外に出てしまった感がある(今の私はどう見ても、教育産業で働くフリーターである)。それでも、ベケットは依然として我が先導者である。