「裏おやゆび姫」を作る。


今日の横浜の高校の「演劇表現」は、先週の佐藤信「イスメネ」で懲りたのでもっとやりやすい課題にすべく、「日本・世界のおはなし101話」(チャイルド本社)を参照して、昔話をリメイクした寸劇作りに挑戦。できあがったのは「裏おやゆび姫」。「お日様って、まぶしいのね」と呟いてこの世に生を受け、物心ついた頃から色気づいているおやゆび姫が、“売り”をやろうとして知り合った蛙と愛人契約を交わすも、逃げ出して若いイケメンの蝶々と同棲を始め、しかしこの蝶々がまた酷い男で、おやゆび姫は借金を背負わされたうえに捨てられてしまう。路頭に迷った挙句にキャバクラの鼠ママさんに拾われ、入店してお客として知り合ったモグラからプロポーズを受けるが、たまたま知り合ったイケメンホストのツバメに惚れられ、№1ホストのツバメ君と「ふたりで大きなお店を作ろう」と意気投合してついに結婚、めでたしめでたし。というお話に仕上がった。

ディテールは全て女子高生諸君のアイデアで、私は、悪ノリする方へ悪ノリする方へとみんなの背中を押しただけである。余りに下品なので、ついてこれず引いてしまう生徒もいたが、なに構うものか。昨今は「ドラマ・ティーチャー」などと洒落た英語が輸入され、学校で演劇教育を担う演劇人も増えているようだが、こういうヤバい授業を平然とやってのけるのは私くらいではないか。しかし、舞台という虚構空間の内部でならどんな逸脱も許されるというのは、重要なメッセージではあるのだ。昔、細野晴臣のレーベルのキャッチコピーか何かで「想像だけなら逮捕されない」という絶妙なフレーズがあったが、以来これは私の座右の銘でもある(笑)。もっとも、逸脱してもいいというのは、単なるメチャクチャをやればいいということではない。それはもちろん、内容に道徳的な制限を加えるなどということではなく、内容はどうでもいいから、登場人物の心理・人間関係・物語の展開を明確にすべし、ということだ。そしてそこに演劇的な指導が介在する。

つまり演劇とは「型を破るために必要な型」である。言い換えれば、エロスに飲み込まれて己が実存を破壊することのないよう、免疫をつけるためにおこなう予防接種のような代物だ(例えば、谷崎潤一郎はそういう演劇の本質をよくわかっていた)。無菌状態が却って人間の抵抗力を弱めるのだとすれば、毒を薬にすることでこそ、私に言わせれば「生きる力」も育まれるというものだ。しかし、毒はやっぱり毒かもしれないがね。うははははは。

補足。そういえば以前、学校教育における私の基本的スタンスは、映画「瀬戸内少年野球団」で島田紳助が演じていた“悪いお兄さん”そのものだと書いたことがあるが、これは今も全く変わらない。