例の火曜日


先週に続いて教室を蜷川組に提供しているため、1限「身体表現法」は休講。ということで今日は、珍しく余裕をもって2限「日本演劇史(現代)」の準備ができた……はずなのだが、時間があったらあったでやらねばならないことは色々あって、結局いつも通り慌てて大学へ。実は、毎週火曜は朝から晩まで授業で体力を消耗してしまうし、2限のおかげで資料も山のように抱えて出かけねばならないので、朝は赤字覚悟で(というのは大袈裟だが)吉祥寺から仙川までタクシーで移動しているのだ。今日こそ電車で移動するつもりだったのだが、時間が足りなくてやっぱりタクシーになってしまった。

「日本演劇史(現代)」は、60年代アングラ演劇の補足。新劇からアングラへの転回を促した作品として、福田善之「真田風雲録」を紹介。その他、演劇センター68/69の「コミュニケーション計画第1番」や、アングラ諸劇団における劇団運営システムなどあれこれ話したうえで、ビデオで大島渚監督「日本の夜と霧」、寺山修司「奴婢訓」、唐十郎「ジャガーの眼」を紹介。この、最後にまとめてビデオを見せるというスタイルには、もう少し工夫が必要だろう。説明しながら随時映像を差し挟めるといいのだが、その度に部屋の明かりをつけたり消したりするのが億劫なので、最後にまとめてしまっている(手元に照明のフェーダーでもあれば別なんだが)。しかし、もうちょっとなんとかならないものかな。パワーポイントを使ったプレゼンなんて、みんなどうしてるんだろ?と思ってサーチしたところ、面白い文章がひっかかった。

http://www.kt.rim.or.jp/~sugasawa/sub/powerpoint.html

これ、7~8年前に書かれた文章らしいけど、今でもそのままあてはまるんじゃないか。うーむ、やはり巧みな話術に勝るものはなし、か。ビジュアル・プレゼンテーションって、確かにインパクトは強いけど、飽くまで添え物でしかないっていう気はするしなあ。とすると、工夫するにしてもどのみち大したことはできないのかもしれない。

ところで今日は、私語をやめない男子学生を怒鳴りつけてしまった。唐突過ぎて良い対応ではなかった。講義する中身がぎっしりだと、どうしても授業を進めるテクニックにまで手が回らないから、こういうことになってしまう。そこで思ったことが一つ。この大学では、学生は「俳優の卵」や「演奏家の卵」であるから、一人前の大人として扱うことが建前になっている。だが、専門性の強い大学とはいってもそこに集まる若者はいまどきの若者なのだから、この建前は実情と食い違っているのではないか? そして、実情とずれた建前は、この若者たちに「自分は特別の存在である(はず!)」という、歪んだ自尊心を植えつけているのではないか?

もしも本当に学生を一人前の大人として扱うなら、出席を評価に加味するなどという措置は即刻やめねばならない。事実、今年から私のホームグラウンドとなった大検受験予備校は、当たり前だが出席などとらず、どの授業を選びどういう学習をするかは、完全に本人まかせになっている。従って講師の側も、つまらない授業やためにならない授業をやってしまうとたちまち閑古鳥が鳴いてしまうので、自然と力の入った授業をおこなうことになる(少なくとも私はそういう気持ちで臨んでいる)。大学だろうが何だろうが、本当はこれでいいはずなのだ。

しかし、大学で同じことをやってしまうと単位を落とす学生が続出し、結果的に学校の評判が悪くなってしまうというなら、やはりその学生たちは「一人前の大人」ではなく、「一昔前の高校生」「半人前の子供」として扱うのが正解ではないだろうか。その前提に立てば、どの大学も、カリキュラムを大胆に再編成せざるをえないはずなのだ。

そう考えると、私が勤める大検受験予備校は、この学歴社会の矛盾から逃れて一息つける、数少ない駆け込み寺の一つだという事実に行き当たる。少なくともここには、建前と実情の矛盾がない。ただ、そういう場所で思春期の数年間を過ごすことが、人間の成長にとってどんな効果をもたらすことになるのか、そこは私にはまだ見えていないけれども。

午後、川越の大学の「文章表現法」は、建前なんぞかなぐり捨てたところで、社会の変容と大学の経営を合致させるために設置された科目である。今日は第2回論述試験。毎回出席して汗をかき作文を執筆している学生たち(3割程度か)は、段々としっかりした論述ができるようになってきた。これは、サンプルを抽出すれば営業用の資料になるはずだ。あとは、現在の講義のスタイルを踏まえつつ、ステップを踏んでレベルアップする実感が伴うカリキュラムを工夫することができれば、完璧だろう。カリキュラム開発については、この講義を売っている教育コンサル会社の裁量次第である。一儲けする気、ないかなあ。近いうち社長さんと話してみよう。