書物とのつきあい。


ネットの古本屋で注文していた『惨虐立法/草間暉雄遺稿集』が、今日届いた。こういう貴重な文献があっさり手に入り、感慨無量である。もう何年もかけて、演劇関係の貴重な書物をコツコツと買い集めているのだが、先日、何年も執念深く探し続けていた菅孝行『死せる「芸術」=新劇に寄す』を発見したのもネット上だった。一方、グロトフスキ『実験演劇論』、イヨネスコ『ノート・反ノート』、マーティン・エスリン『ブレヒト』などは古本屋で入手した。購入するだけで満足してしまい、どれもまともに読んでいない。民芸のファンだというある古本屋の店主は、昔の日生劇場の台本(花田清輝や寺山修司の戯曲!)を譲ってくれた。あれなど、そこそこいい値段の売り物になるのかもしれない。売らないけど。

それにしても、ネットでこれだけ古本が手に入るとなると、もう大概の本は手放してしまっても大丈夫だろう。必要なときはまた注文すれば良いのだし。ということで、これは私の人生にとって劇的な方針転換なのだが、入手容易な類の本を大量に処分することにした。本棚を整理していると、積年の垢を落とすかのような爽快な気分である。読書傾向には変化があったようで、20代で傾倒した現代思想系の書物に対する愛着が悉く失われていることに気づき、ちょっと驚いた。今の私は、現実を面白く解釈してみせる芸当には、ほとんど興味がない。それよりも、具体的な事実を掘り起こして丹念に報告してくれる仕事か、あるいはこれもまた具体的に、現実を変革する方法について模索する仕事か、そのどちらかを読んでみたい気分である。となると、歴史についての書物か、政治についての書物か、そのどちらかが本棚に残ることになる。

ところで、私は批評家としてはアングラ第一世代に同伴的(親子ほども歳が離れているのに!)な書き手であり、彼らの営為とその意義を後世に伝えることに主眼を置いてこうやって書物をかき集めているのだが、対するに、新劇というジャンルはどうするのだろう? 現場の兵隊を育成することはできていても、思想的な次元までひっくるめた後継者となりうる人材などひとりも育ててはいないはずだ。ということは、やはりジャンル全体として緩慢な死を迎えることになるのだろう。狭いサークルに閉じこもって自己満足に耽っていたことのツケが回ったと言うほかあるまい。ちなみに小劇場演劇は、今はお客が入っているから新劇のような危機的な事態には至っていないが、しかしいずれ同じ道を辿ることになるだろう。当面は若いアカデミシャンたちが応援してくれるだろうが、廃れてしまえばそれまでである。

もっとも私は最近、戦後新劇の見直しという作業に密かに着手している。この一点に、アングラ第一世代と私との世代的落差が反映している。新劇もアングラも含めて、大局から戦後演劇の総体を把握したいというのが私の抱く野心なのである。