山本安英『女優という仕事』


明日の講義に備えて、山本安英『女優という仕事』(岩波新書)を読了。

とにかく、語られる言葉の一つ一つが研ぎ澄まされており、重みがある。二代目左團次らとの稽古、築地小劇場における名作戯曲との格闘、土方與志伯爵低におけるエチュードの模索、長唄や日本舞踊の修練、そして、「夕鶴」をはじめとする木下順二戯曲に対する、深遠なる理解。これはもう俳優哲学の域に達していると言ってよい。スタニスラフスキー・システムの制度化にすら失敗し、漠然とした経験論にのみ立脚する今日の新劇の堕落ぶりからは、想像もつかぬ志の高さを感じる。一方、下世話な興味をかきたてるスキャンダルは語られない。私としては、彼女が小山内薫の死後、土方追放に反発して築地小劇場を脱退し、新築地劇団に移ったあたりの裏事情が知りたかったのだが、そういう生々しい話題は一切登場しない。それもまた女優としての高潔な美学なのだろう。

ところで、木下民話劇とは新劇の「もう一つの可能性」を示唆するものだったのではないかと、近頃私は考えている。これに対応して、戦中の活動休止をくぐり戦後になって山本が立ち上げた〈ぶどうの会〉は、戦後新劇の諸劇団の中でも異色のスタンスで光彩を放っている。だが、この「もう一つの可能性」は新劇内部で熟成し発酵するには至らず、かろうじて秋元松代のような天才に受け継がれた面はあるものの、大きく見ればアングラ演劇(劇作家に限定するなら別役実・佐藤信・唐十郎ら)に簒奪されて今日に至ると言うべきであろう。その違いはどこで生じたか? おそらく、戦争責任問題が蹉跌となったという菅孝行の解釈が、正鵠を射ているのだ。そして、そこに改めて一本の橋をかけたいと願うことは、やはり当事者性を失った後進の妄想に過ぎないのだろうか。

明日の講義では、木下順二の「蛙昇天」を手がかりに、1950年前後の社会状況を考察する。