受験産業に舞い戻って金を稼ぐ日々であるが、私の担当である現代文という科目は、出口の論理エンジン、工藤順一のコボちゃん作文、そして私が以前所属していた鶏鳴学園の形式読解など、ここ10年くらいの間に学習メソッドが色々開発され、飛躍的に精度が上がっているということに気がついた。「ゆとり教育」による学力低下への反動で、昨今は陰山メソッドのように基礎的なリテラシーを向上させる取り組みに注目が集まっているが、現代文の新傾向も似たような脈絡で登場しているのかもしれない。いずれも、数学でいうSEGのような零細経営の国語専門塾が開発しており、大手予備校の方が追いついていない点が面白い。

とりわけ、出口の論理エンジンは、国語教育の一つの極限を示しているといっても過言ではない。ただ、ここまでスキルを純化してしまうとまるでフェティシズムの域に突入しているかのようで、それはそれでまた反動を招いてしまうという気もする。教育という行為はマンツーマンでしか成立しえないところがあり、どこかに、メソッドによる形式化を拒む曖昧さ、割り切れなさが残ってしまうからだ。また、そもそも他人の書いた文章を読むことの醍醐味が、形式化によってはどうしても表現できないという事情もある。

私の場合も、前述のような先達には歯が立たないながら、自分なりにシステマティックな読解&解答方法を工夫して伝授しているのだが、方法はしょせん方法であって、その方法を介して到達すべき境地とはどんなものなのか、そこを明確に提示できるかどうかが、この業界で一人前の仕事ができるかどうかの分かれ目になるような気がする。