思索に耽る。


仕事の帰り道、新宿の夜空を見上げながらぼんやり考えたこと。

80年代はサブカルチャーの時代、90年代はインターネットの時代、そして00年代は、PCやネットを駆使して新しいビジネスを興すことが時代の主潮であり、やはり堀江貴文という人物が、象徴的な存在ということになろう(実像はただのITヤクザだが)。顧みて私が芝居に携わったのは、80年代に小劇場演劇が流行していたから自分も1ファンとして影響を受けたという、ただそれだけことなのだろう。

もうこれからは、演劇のようなマイナーなジャンルが社会的影響を持つことはないだろう。いや演劇に限らず、文学も芸術も、あるいは政治的な言論活動も、影響力など行使することはできないだろう。ただ、自分が少数者として抑圧される場合(会社から不当解雇されるとか、医療ミスで身内を殺されるとか、事故にあったのに正当な補償が受けられないとか)にのみ、人は、絶望的な闘いを強いられ、連帯の必要性を思い知るだろう。だが、その闘いには決して普遍性が伴わない。誰もが、自分が抑圧される少数者の側に立つか否かは、確率的な「運」の問題だと信じて疑わないのだから。

かくして、国家権力を走狗として飼いならし、多国籍化した企業群の競争として現象しつつ、資本制は突き進んでゆく。

この圧倒的な現実を正視するとき、人間の精神は、虚無に侵犯されかねない。そしてこの虚無に対して孤独な戦いを挑むことにはかろうじて、孤独に徹するがゆえの普遍性が、逆説的に存するように思われる。だが、それとてもただの盲信に過ぎないのかもしれぬ。孤独な営為は真実孤独なままであるなら、誰にも知られぬ営為で終わるばかりだから。かといって、孤独な営為を他人に対して表明した瞬間、その営為は孤独ではなくなり、既に失効を宣告された「コミューン」の原理へと堕落し始めるだろう。

そこでさらに踏み込んで、このような希望と絶望の悪循環を断ち切ることができるとすれば、それはただひとつ、ニーチェ言うところの「哄笑」だけであろう。むろん「哄笑」に現実を変える力があるわけではない。ただ、虚無に耐えうる精神の健康を回復させるというだけだ。

だが、本当にそれだけなのか? 「哄笑」が現実を変えたことは、かつて一度もなかったのか?

こういう思索の道筋を辿ると、私はいつもイエス・キリストはどうであったかと考える。パリサイの徒の言行不一致を、機知に富んだ「まぜっかえし」によって暴露したとき、イエスを取り巻く民衆は、思わず“笑った”のではないだろうか? そして教条化したイデオロギーを“笑う”ことは、単なる相対化にとどまるものではなく、むしろそのイデオロギーのこわばりをほぐし、再生させることに繋がったのではないか?

こう書くと、私はまるでイエスを「トリックスター」として捉え、山口昌男のように「中心」と「周縁」の弁証法を説くかのように思われるかもしれないが、私が言いたいことは少し違う。イエス・キリストの存在は一回的であって、「トリックスター」などという抽象化はできない。なぜならば、イエスを媒介として再生を果たしたイデオロギーは、民族宗教から世界宗教への転生を遂げたからだ。このような事態は、世界史的に見て空前絶後である。山口昌男のような「理論」への一般化・矮小化は、禁物であろう。

嗚呼しかし、私はここで再び「コミューン」の夢を語っているだけなのかもしれない。イエス・キリストなど持ち出すのは私の悪い癖で、ニーチェがキリスト教徒の心理の根底に「弱者のルサンチマン」を喝破したことに想到すべきなのかもしれない。なるほど教会権力を成立させる精神的動因とはそういうものだろうし、腐敗した教会権力を活性化させる「正統」と「異端」のダイナミズムなんぞは、それこそ山口昌男の図式で解釈すればいいことだ。しかし、原始教団はどうだろうか? そこに見出される、イエスと12使徒との一回的な遭遇は、やはり「奇蹟」と喩える他ないのではないか?