芝居の稽古が続く。


芝居に演出家なんか要らない!というのは、どうやら私の暴言であったか……。今日は、桐朋の卒業生で、ココリスのパーティの司会をお願いしているFさんが稽古の見学に来てくれたので、ダメ出しをもらう。いちいち的確で、大変にありがたい。乾いた喉に水を注ぐようである。うーむ、認めたくないが、やっぱり演出家って必要なのかなあ。しかし、怒鳴ったり人格攻撃したり灰皿投げたりして威張っている癖に、芸術的センスのかけらもない日本の演出家たちの言うことを聞けるかといったら、私は聞けないなあ。考えただけでもイヤだなあ。ぜったい喧嘩しちゃうなあ。でもよくよく振り返ると、中学時代の演劇部では、顧問の先生(もう亡くなられた)に毎日怒鳴られていたのだが。それでも稽古は毎日楽しかったから、今の私の方が意固地になっているということだろうか。

今日は、ココリスの藤田社長と、アシスタントの中西さんが、差し入れを持って見学に来てくれた。勧進元に見られていると思うと、大変に緊張する。芝居を始めて10年以上になるが、これは初めての経験である。長く続けていると、こういう経験もできるのだから、面白い。

芝居の方は、ようやく最後まで通った、成立した、という実感が湧いた。台詞のみならず地の文もいくつか暗記せねばならないのだが、相手役に集中して台詞を言った直後に、さっと意識を切り替えて地の文を口にするというのが至難の業で、どうしても地の文が記憶から飛んでしまう。しかしよく考えれば、私はこの手の意識の切り替えを「ブレヒト的な手法」とか何とか言って、これまで大勢の役者さんたちに要求してきたのだ! どうもすみませんでした皆さん!!(笑)

それにしても、私の演技は演技になっているのだろうか。誰も何も言ってくれないので、ひょっとして非常にまずいことになっているのではないか。恐ろしくてビデオに撮って確認する勇気も湧かない。でもまあ女優さんは非常に力のある人だし、河崎さんの音楽は相変わらず素晴らしいので、保険はかけてあるわけだけど。

自分で演技の出来不出来を測定するのは困難だが、相手役とのダイアローグがうまくいっているときは「できた!」という実感が得られる。しかし、これを毎回成功に導くためとは言っても、超目標だの貫通行動だのサブテキストだのを設定するスタニスラフスキーの方法論って、本当に有効なのか? 人間の無意識は、そんなふうにいくら定式化しようとしても、定式化し切れないアモルファスな代物ではないのか? そう考えると、新劇を打倒してアングラ演劇が登場せねばならなかった背景が、少しだけわかったような気がするのである。

ところで、ココリスのパーティは桐朋短大の諸君にスタッフをお願いし、準備が着々と進んでいる。頼もしい限りである。