さらに芝居の稽古をする。


日常の仕事をこなすだけで手一杯であるため、わずか数日といっても、芝居の稽古に集中するのはなかなか大変である。もっと稽古時間を確保したいのだが、仕方がない。だいたいの構成プランが仕上がったので、これに沿って津島さん、河崎さんと一緒に稽古。演劇崇拝◎自動焦点の演出家・佐々木治己さんが遊びに来てくれたので、これ幸いと稽古に巻き込み、簡単な演出をつけてもらう。役者だけで作っていると客観性がなく不安ばかりが募ってしまうので、非常に助かっちゃいました。佐々木さんどうもありがとうございました。

自分で演出していると、「演出家なんて別に要らないんじゃないか、役者だけいればいいんじゃないか」と考えることが多く、今回は本当に要らないかどうか実験するつもりでやっているところもあるのだが、却って「なぜ演出というポジションが必要か」を痛感することしきりで、これは私としては大きな発見であった。また、自分がふだん演出家として、観客席の側から芝居を観ることに慣れきっており、舞台上から芝居を把握するという視点を、すっかり失ってしまっていることにも気がついた。

演技という行為は、自分の身体を素材として為されるために、その良し悪しを自分自身で客観的に判定するのは大変難しい。同じく身体を素材としていても、舞踊や歌唱のような様式性があれば、その様式を獲得しえているかどうかが一つの指標になり、自分で達成度を計ることもある程度は可能になるだろう。そこで、芝居というジャンルの人間が「様式の確立」を課題とすることもままあるわけだが、あれは本質的には、自分で自分の行為を把握できない不安を払拭したいという動機にもとづいているのではないだろうか。また「ギャグ」を取り入れる芝居も同様で、あれも観客の直接的な反応を惹起することによって、良し悪しのつかめない不安を払拭したいという動機にもとづいているのだろう。だがそもそも、近代演劇はこのような様式性、このような芸能性を放棄するところから出発したと言ってよい。従って、自分がやっていることを自分で把握しきれないという不安に常に直面し続けるのが近代俳優の宿命であり、そこからまた、「客観性」を司る演出家の権能を必要とし続けるのも、如何ともし難いということになる。ただ本当は、俳優に対して評価を下すのは最終的には観客であるから、演出家というのは飽くまで方便として必要な存在に過ぎないとも言えよう。ともあれ、演劇とは、自分では把握しきれない自分の行為の意味を、他者(観客)に委ねてしまうジャンルである。日常においても我々は自分の行為の意味を統御しきれず、意識と行動の落差、自分が認識している自己と他者が認識している(と思われる)自己との落差に苛まれ、不安に襲われる。これは俳優が舞台上で感じる不安と同質のものかもしれず、とすると、演劇が観客の共感を呼ぶ理由も、このあたりに見出せるのかもしれない。