芝居の稽古をする。


ココリスの会社設立記念パーティで、出し物を披露するよう依頼され、坂口安吾の短編「私は海をだきしめていたい」を寸劇に仕立てることになり、現在稽古中である。わずか30分程度の内容であり、基本的には朗読をするのだが、要所要所ダイアローグが登場するので、そこは台詞を覚えて普通に演技するということになった。出演は、この春に桐朋を卒業したばかりの女優・津島裕子さんと、私大岡である。音楽は、「コンベヤーは止まらない」に続いて河崎純さんにお願いした。

寸劇といっても一応きちんとした芝居のフォーマットに従って作っており、私としては、相手役がいて、かつ台詞を覚えて出演するというのは、久々の経験である。桐朋のような場所で、大学のセンセイであり、なおかつ演出家でもあるというスタンスを1年以上続けた結果、己の貧弱な知識を切り売りしてああだこうだ喋ることよりも、私自身が実際に体を動かしてみることの方が、10代20代の人たちに対して良い効果があるのではないかという風に考えるようになった。もちろん、お手本を示しうるなどという妄想は微塵も抱いていない。逆に、一回り年下の役者さんと共同作業をやって、どんどん失敗して恥をかいて、みっともないツラをさらすべきだと判断したのである。「なあんだ、大岡も偉そうなこと言ってるけど、この程度か。やっぱり、頭で考えるのと体を動かすのは、違うんだな」と。「しかし、ってことは、頭で考えることと体を動かすことの落差をどう埋めるかって、結局自分自身で模索する以外にないんだな」とまで気がついてもらえれば、ベストなのだが。

ただ体を動かすと言っても、演出する際に「こんな風に動いてみろ」と自分が動いてみせるというのは、私は原則として禁じ手にしているから(それどころか、具体的に行動を制限してしまうような指示すら、ここ数年ほとんど口にしなくなっている)、となるとやはり、演出家というスタンスを放棄して、役者として舞台に立つ以外にないわけだ。まあ今回の寸劇はパーティの出し物であるから、実際に若者たちに観てもらうわけにはいかないが、それでも、そういうことをやっているという姿勢を示しうるだけでも、意味があるのではないかと考えた次第である。

それにしても、自分の演技の拙劣さには、我ながら呆れてしまう。蜷川演出の「KITCHEN」で鴻上尚史がなかなか渋い演技を見せていたことをふと思い出し、地団駄を踏む今日この頃である。