35歳の誕生日を迎える。色々な人からお祝いのメールを頂戴する。また、桐朋の学生さんたちが、酒席を設けて祝ってくれた。皆さんどうもありがとう。

ここのところ、毎週土曜、ギリシア悲劇の連続上演を観に静岡に通っているせいで、いささかバテ気味である。大学の講義の準備も、次から次にやることが溜まっていき、結構ヘトヘトである。かろうじて、毎週水曜の藤沢総合高校の「演劇表現」は、昨年に続きほっと一息つける時間である。河合塾COSMOの現代文も、準備作業それ自体には面白みがあるからさして苦ではない。本当はもっとスキルアップをはかりたいので、予備校の仕事を他に増やすかどうか、悩みどころだ。大変なのはやはり、桐朋の「日本演劇史」と、尚美の「文章表現法」、それからCOSMOで今年から開設した「パフォーミング・アーツへの招待」の3つである。どれもこれもやりたいことだから楽しいはずなのだが、これだけ一気に重なると、精神的・体力的負担は決して小さくない。だいたい、ここのところ午前4時、5時に起きる日がザラである。夕食後には集中力が落ちているので、早起きして作業する方が能率が良いから、こうなっちゃうのである。さらに現在、非公開の小さな芝居の稽古もやっているので、スケジュールはぎっしりである。

しかし、大学で講義したり、創作の現場に立ったり、大検予備校で生徒諸君とあれこれ語り合ったり、というのは、実はいずれも20代の頃にやりたいと思っていたことなので、ささやかな夢は一応叶ってはいるわけだ。そういう意味では、贅沢は言えないとつくづく思う。やりたいことをやっているぶん、どの職場でも全力投球せねばならんよなあ。

それにしても、最近「本当は何がやりたいのか」と他人から問われることが多くなった。だいたい「演出家」と「演劇批評家」という肩書きが並んでいるだけでじゅうぶん奇異なのに、加えて生活の手段は「大学と高校と予備校でセンセイをやっていて、教えている内容は全て異なります」では、確かにわけがわからない。いくらか親しい人たちからは、本当は「演出」が一番やりたいことなんでしょ?と叱咤されるのだが、しかし、私は年がら年中稽古場にいたいとは全く思っていないのである。1年に1本でも本番があれば十分で、それではアマチュアだと言われれば、じゃあアマチュア演出家でいいや、と思ってしまう。さほどに、芝居の世界に埋没することには抵抗を感じるのである。このあたり、世代的な感覚もあるかもしれない。わざわざリスクを背負ってまで「有名人」を目指そうとは思わない、むしろ、のんびり暮らせるなら無名のままでいい、という感覚。秋山駿が団地生活の中で「普通であること」に徹しようとする感覚など、私は私なりに、よくわかる気がするのである。

世代と言えば、最近つくづく思うのだが、小劇場演劇にしても、あるいは予備校の教育にしても、結局いちばん面白い部分は60年代の学生運動の影響によって形成されており、我々の世代に残されているのは、全共闘世代の残したツケを払うというような、さして前向きではない仕事だけではないだろうか。文学も美術も映画も、下手すると音楽も、だいたい状況は同じだろう。我々の世代がトップランナーを演じ、開拓者の冒険を存分に味わえるジャンルは、今はITと金融くらいだ。堀江貴文が若年サラリーマンの支持を受けることには、それなりの背景があるわけだ。

後ろ向きの仕事がお似合いの世代という意味では、アカデミシャンは向いている仕事かもしれない。実際、象牙の塔でなら、私の同世代は優秀な人材を輩出しているはずだ。しかし私自身は、このスタンスだけは選択できずに今日に至った。元来お祭り好きであり、活気あふれる場所に身を置きたいと考えてきた人間として、研究を生業とすることだけは潔しとできなかったのである。それに、「在野」の物書きに対する憧れもあった。これもまた時代遅れのロマンティシズムであろうか。

ともあれ、理論的な仕事と、実践的な仕事と、教育的な仕事と--それらを、さしたる一貫性もないままに、行ったり来たりしているのが35歳の私の姿である。人生も後半戦だが、これからやるべきことがあるとすれば、まずは本を書き上げることであり、それから、自分なりの思想形成を成し遂げることである。そしてできることなら、この自分なりの思想なるものを、人目にさらしうるレベルに引き上げたいのである。今まで恥ずかしくて誰にも言わず、また、自分でも意識下に封じ込めてきたのだが、実のところ私は「思想家」を目指したいのである。ヴァルター・ベンヤミンはラジオ・ドラマを執筆し、シモーヌ・ヴェーユやジャン=ポール・サルトルは戯曲を執筆し、スーザン・ソンタグはサラエヴォで「ゴドーを待ちながら」を上演した。私にとっての演劇とは、本来こうしたヨーロッパの思想家たちの創作実践に触発されたものである。日本では谷川雁や吉本隆明が詩人として出発している。だがこうした巨人たちの足元にも及ばぬ私は、演劇という畑で活動するだけで精一杯であった。その一方で、難しいことを噛み砕いて説明する術は、私はもう十分に身につけている。誰にでもできる芸当ではない以上、それだけを生業としてやっていくこともできるだろう。売れっ子の予備校講師になるなんてのも、体力が続けばできちゃうだろう。しかし、できることならもう一度、抽象度の高い思考の次元に飛翔して戦ってみたい。その中で、これまでの実践的な仕事や教育的な仕事を止揚したいというのが、私の願うところである。だが、それには圧倒的に勉強が不足している。誕生日のプレゼントなんか要らない、私が今何よりほしいのは、本を読む時間である!