このたび、静岡市で活躍する女優ふたりのユニット「絢とひさ枝のふらり旅」に招かれ、演出を担当することになりました。なんでも好きな演目をやってくれとのことなので、以前から機会があれば取り上げたいと考えていた、守中高明さんの長編詩『シスター・アンティゴネーの暦のない墓』(思潮社/2001)を上演したいと提案し、実現する運びとなりました。

 守中さんは、フランス現代思想の研究者・翻訳者として知られ、また、現代詩人としても活躍されている方です。大文字の〈歴史=物語〉に抵抗する無名者たちのたたずまいを、幾度も幾度も、詩という形式で描いてこられたというのが私の守中さんに対する印象で、詩も小説も演劇も「等身大の日常」を描くことに自足しがちな昨今、その「等身大の日常」が容易に侵犯され翻弄され蹂躙されうるという過酷な現実を、冷徹に見据えている例外的な詩人として、勝手ながら共感して参りました。

 社会の矛盾を隠蔽するために捏造される〈歴史=物語〉。そこから零れ落ちる声たちを聴き取ろうとする者にとって、詩という形式は好都合です。なぜなら、断片的な語句やイメージを連鎖させる詩的言語は、個々の人物や個々の出来事を単一の〈歴史=物語〉へと還元・統合しようとする、散文的言語につきまとう〈全体化〉の欲望を脱臼させ、複数性の地平を切り拓くものだからです。このとき詩人は自ら、言語の言語に対する闘争のステージと化しているのでしょう。

 ところで私は1992年に演劇活動を開始したのですが、当初、演劇における詩的形式に着目し、劇作家ハイナー・ミュラーの「詩劇」と言える『ハムレットマシーン』の演出から出発しました。近代以降の演劇は詩的形式を喪失し、ひたすら「対話」を連ねる形式に変貌してしまい、その形式によって描かれる内容は、人と人との対立を描きその対立を最後には止揚する、散文的な〈物語〉に一本化してしまいました。そこで私としては、詩的形式を過剰に増幅させる実験によって、「対話」形式を失効させ、演劇における〈物語〉の支配に揺さぶりをかけることを企図したわけです。これもまた、言語の言語に対する闘争の一形態だったかもしれません。ダダやアンチ・テアトルのようなナンセンスな言語遊戯ではなく、異化効果を狙ったとでも言いましょうか。

 90年代の末に劇団を解散しフリーの演出家となった私は、仕事として演出を請け負うようになり、徐々にこのような実験からは遠ざかってしまいました。しかし昨秋、SPACで作・演出した『王国、空を飛ぶ!~アリストパネスの「鳥」~』で、大岡流エンタテインメントの可能性はいったん出し尽くしたと感じましたので、ここで約20年ぶりに、「詩劇」の上演に回帰してみたいと思います。

 『シスター・アンティゴネーの暦のない墓』は、ギリシア悲劇という〈歴史=物語〉装置に対して微細な偏差をはらんでいる点で、まさしく闘争的な詩篇であり、私にとってこれ以上ふさわしいテクストはありません。このテクストを媒介とし、優れたクリエイターである方々の助力を得て、今再び、制度化された思考と身ぶりへの闘争を敢行してみたいと思います。お楽しみ下さい。

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