既にTwitterやFACEBOOKで拡散しているように、私の演劇人生で最大規模の公演である、SPAC新作『王国、空を飛ぶ!』が、静岡芸術劇場にて上演中である。これは、古代ギリシアの喜劇作家アリストパネスの傑作『鳥』を原作として、大岡が作・演出し、SPACの俳優陣が出演する作品である。SPAC外からは、俳優として時々自動の朝比奈尚行氏、美術デザイナーとして発見の会の深川信也氏というベテランを招き、この現場それ自体が、小劇場運動の半世紀を辿り直す場となりうる布陣を敷いた。また音楽監督には、既に大岡作品では欠かせない存在である作曲家の渡会美帆氏を迎え、パーカッショニストの永井朋生氏、フルーティストの渡部寿珠氏という、ジャンルに縛られない表現力を備えた、優秀な演奏家たちと楽隊を組んでもらった。

林達夫や花田清輝のような知識人が生きていれば、アリストパネスの重要性について私などがくだくだしく説明する必要は皆無であろうが、もはや、そのような人文教養の権威性が通用する時代ではなくなった。1954年に俳優座劇場の柿落とし公演として選ばれたのが『女の平和』だったことなど、もう誰も振り返りはしない。おそらく『女の平和』を選定したのは千田是也であろうが、このような演劇的知性を、演劇人自身(創作家だけでなく批評家、研究者、ジャーナリストを含む)が喪失して久しい。アングラによる新劇批判とは、そのような演劇的知性を「わかったうえであえて蹴っ飛ばす」ことだったが、後続の世代は「そもそも知らない」という事態に陥った。このような事態が、既に30年、いや40年ほど続いている。変化の兆しは全く見られず、現在の日本の演劇は、「分衆」と化したミクロな観客層それぞれの嗜好や欲望に迎合することをなりわいとしている。言いかえれば、国家なり社会なり世界なりの「全体」を問い直すことを、演劇があきらめてしまって久しい。だが、かつてはそうではなかったのだ。

そこで今一度確認せねばならないが、西洋には、アリストパネスからブレヒトに至る、政治的喜劇(という形容も本当はおかしい。喜劇とは本質的に政治的なものなのだから)の伝統が根強く存在している(ちなみに、先述の千田是也が注目した「ものまね」の身振りを源流とする演劇伝統も、かくなるものであろう)。この政治的喜劇の特色を私なりに定義するなら、人々をいくつかの類型に整理し、「こういう人ってこうだよね」という知的な共感を前提とした笑いを組織し、国家や社会の「全体」の縮図を構成し、その「全体」を客観的に観察すること――すなわち、類型化という愉快な暴力の行使による「全体」の相対化、ということになる。この方法論は階級社会と不即不離の関係にあり、それこそ類型化は多くの場合、階級を単位としてなされる。裏返せば、英雄なき時代に悲劇が成立しにくいのと同様、貧窮なき時代に喜劇は成立しにくいということだ。演劇から「全体」を問う志向を放逐したのは、なにより20世紀に拡大した、水平化=大衆化の力学であったということだろう。同一化した大衆が微細な「差異化」を競い「多様化」を享受する時代が到来し、悲劇も喜劇も成立しにくくなった。

だが、この傾向は21世紀の現在においても自明であろうか。そうも言い切れない、というのが私の見立てである。既に2004年、私は八木柊一郎『コンベヤーは止まらない』を演出したが、この時点で、非正規雇用の拡大による格差社会化の縮図を、高度成長のとば口に当たる1962年の戯曲によって描写=再現することが可能であることを証明したつもりである。あれから10年が過ぎ、格差社会化が是正される気配は全く感じられない。グローバル化は国民国家をますます機能不全に追い込んでいる。とすれば、21世紀型の階級社会を前提として、「全体」を問う悲劇/喜劇が成立する余地もあるのではないか。思えば「分衆」にしても「差異化」「多様化」にしても、いかにも80年代的なタームではある。現代演劇や現代文学がなお依拠するそのような世界認識は、20世紀的・前時代的なパラダイムに過ぎないのかもしれない。スパイク・リー監督が『女の平和』を翻案した映画を作ったそうだが、ハリウッド映画人の同時代感覚はさすがである。

ということで、今回の『王国、空を飛ぶ!』は、私大岡が、元祖喜劇作家アリストパネスの戯曲の翻案を試みることにより、この政治的喜劇の伝統を継承することを、高らかに宣言するものである。

以下はいくらかネタバレである。

『鳥』の主題・構成・物語を尊重しつつ、それを現代日本社会へ翻案した『王国、空を飛ぶ!』において、主軸となるのは、現代日本における正社員層=ホワイトカラー=中産階級の趨勢である。そもそも日本で正社員層は長らく「サラリーマン」として表象されてきたが、これは植木等の「無責任」シリーズやサトウサンペイの「フジ三太郎」を連想させる、極めて「昭和」的な類型である。この「昭和」的「サラリーマン」はいつしか「平成」的「ビジネスパーソン」に変質したが、後者は前者と比べると、日本的経営に安住することを許されず、そのぶん企業組織への帰属意識が弱まり、そのぶん個人対個人の競争意識が高まった、能力主義的な人格類型である。擬似社会主義から新自由主義へ、と総括してもいいが、そのようなここ30年ほどの間に生じた日本社会の変質を、私はこの芝居の主人公である名も無きサラリーマン/ビジネスパーソンに託したつもりである。思えば「脱サラ」という自嘲的なニュアンスを含む言葉を「起業」とポジティブに言い換えるのも「平成」的流儀であるが、このように、資本主義を脱した先にあるのはいっそう過酷な資本主義であった、という皮肉な現実こそ「平成」的である。これが、この芝居の提起する現代社会の「全体」像である。現代国家に反逆したオウム真理教が、現代国家の戯画そのものであったことを想起してもいい。「第三極」を標榜する諸政党が、自民党顔負けの新自由主義を打ち出していることを想起してもいい。そしてそれは、アリストパネスの原作における“鳥の国”が、正しく人間界の戯画であったことに対応している。

では、具体的にはどんな作品が出来上がったのか? それは劇場にて御確認いただきたい。上演は残り1週間である。お見逃しなく!!

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