批評講座第2回、菊地成孔さんによる音楽批評講座が、盛況のうちに終了いたしました。記録を取り損ねてしまいましたので、私の記憶から内容を要約してみます。

(1)インターネットで日記や批評を書き散らすのは、よくない。日本人はもうちょっと沈黙することを覚えるべきだ。好きなものを食べ、好きな音楽を聴き、好きな人と会って、インターネットに感想など書かずに寝る。これで鬱病は激減する。困るのは製薬会社だけだ。でなければ、水が低きに流れるように、インターネット上の批評は、ボタン一つで気に入らない相手を殺傷するテロリズムに近づくことになる。

(2)それでもなお何か批評的な文章を書こうというのなら、きちんと書くしかない。音楽批評をきちんと書くための条件は、楽譜が読めることと音楽理論を知っていること。これは対象がJ-POPでも同じことで、楽曲をアナリーゼできることが、つまりポップ・リテラシーである。にも関わらず「歌謡曲を批評するのにアナリーゼなんて、そんな暴力的なアプローチは必要ない!」とするナイーブな見解が後を絶たない。思えば20世紀は、一つでも多くの作品を知悉している人が批評家として認められる、量が物を言うアーカイビングの時代であった。そこでは巧みな文章力によって、リテラシーの多寡を見えなくしてしまう批評が名文とされた。だが21世紀は、量を知悉することより構造を理解することこそ批評の条件となるのではないか。

(3)精神分析が暴力的な関係性であるのと同様に、確かにアナリーゼとは暴力的行為だ。子供が昆虫に興味を持ってバラバラにして殺してしまうような暴力性が、確かにそこにはあるし、アナリーゼによって構造を抽出するというアプローチを、人文「科学」が引き起こしたソーカル問題と重ねて警戒する気持ちもわからなくはない。しかし、アナリーゼなき音楽批評は、結局、音楽を視覚イメージに変換して言語化する他はない。これは、私たちの知覚の大半が視覚に依存しており、同時に、ラカンの鏡像段階理論からわかる通り、視覚はアンリアルだが聴覚はリアルであるという固有性に由来している(例えば、幻視は日常茶飯事だが幻聴は重篤の症状である)。一方、楽譜が読めるようになる瞬間とは、フロイト的に言えば、去勢恐怖を乗り越える瞬間だ。これが教育によって可能になるのかどうかは、本当はよくわからない。大人がカルチャーセンターでそれを学習し直そうとするのは、「学校時代、きちんと教えてもらえなくて時間を無駄にした」という、現代人らしい損得勘定を動機としているのかもしれない。

(4)自分には、音楽をやっている人間は、皆でひとつの船に乗っているというイメージがある。音楽に限らず、集団というものに対して、ユングの集合的無意識を想定する癖がある。このような人間集団が共存するための手段として、「正しい暴力行使の方法」としての批評は、必要かもしれない。

以上のようにまとめると、けっこう難解な内容をお話しになったように読めるかもしれませんが、これが実のところ、わかりやすい比喩、愉快なエピソード、鋭敏な観察眼に貫かれた体験談、正統な音楽理解に基づいたアカデミックな解説、そして、ご自身「フロイトとラカンに依拠している」と明言された精神分析的解釈を交えながら、ジャズ的即興精神に導かれる、グルーヴ感に満ちたトークを展開していただきました。

月見の里学遊館では、私はこれまで色々なジャンルの人を迎えて聞き手を務めてきましたが、今回は過去最高に楽チンでした(笑)。私もけっこうサービス精神旺盛なトークをやっているつもりでしたけど、完敗です。2時間があっという間でした。

菊地さんは、理論と実践が不即不離の関係にあると言えるところまで、音楽を突き詰めて捉えておられる方ですね。これこそアーティストの理想であり、この人は売れるべくして売れた人だ、と痛感いたしました。

明日のライブが楽しみです。