私は演劇を好きでやっているだけで職業として選択したつもりはなく、にも関わらず今は職業にしてしまっているのだが、失業してもたぶん、おカネにならない活動として、しつこく舞台を続けることになるだろう。だから、本来はプロフェッショナリズムを誇るような気持ちはないのだけれども、でもたまには、プロが結集した現場の心地よさを感じることがある。三島市・三島市教育委員会・NHK厚生文化事業団が主催した東日本大震災チャリティーイベント「朗読と音楽の夕べ」はその好例となった。

SPACは、3部構成となっているこのイベントの第3部に、私の演出作品である、宮澤賢治『セロ弾きのゴーシュ』を提供した。これはもともと静岡県立美術館のロダン館の企画として誕生した作品で、その後、霧島音楽祭でも室内楽バージョンとして上演され、今回は再び出演者を2人に絞り、そのかわり、1000人収容の大ホールで照明と音響を足して厚みを増した、3度目の上演となった。チェリストの長谷川陽子さんと俳優の奥野晃士さんのふたりが、ふたりでひとつの役=ゴーシュ君を演ずるという体裁になっていて、演奏と朗読がフィフティフィフティでコラボするところが面白く、また、「音楽とは誰のために存在するのか」を問いかける物語が期せずして「音楽入門」にもなっているような、シンプルだけれども凝ったパフォーマンスとなっている。従ってこれはSPAC単独の作品ではなくて、ジャパンアーツさんとうちとの共同作業で育ててきた作品ではあるわけだ。

実数は把握していないが、三島のゆぅゆぅホールに、1000人を超えるお客さんが集まったようだ。首都圏で、1ステージ1000人は簡単に成立するのかもしれないが、地方でこれだけ集めるのは至難である。これはもちろん第1部に出演された岸本加世子さんの力が大きいわけだが、そうやって集まった1000人の精神を高揚させ、クライマックスに導くことが、今回の我々のミッションであった。これが東京なら、マニアックなファン1000人を喜ばせればいいのだろうが、そうではないわけで、ふだんあまり舞台に足を運んではいないであろう老若男女が集うのである。その初対面の観客に、決して妥協的ではない内容を提示し、払ったお金に見合う内容だったと認めてもらうのは、自分で言うことではないけれども、簡単にできることではない。前提として、パフォーマーに高度の技術が必要だし、同時に、技術だけでは到達できない領域を目指す、高潔な志がなくてはならない。それはやはり、プロフェッショナリズムと名指すべきものなのかもしれない。

今回の舞台は、そういうプロフェッショナリズムが咲かせた華であった。歌ものに手慣れた東京のスタッフの方々が助けて下さったおかげで、世界観に奥行きも生まれた。再々演ということで、レパートリー化した作品ならではの強みもあった。かくしてこの『セロ弾きのゴーシュ』がどこへ出しても恥ずかしくない代表作に育ったことを思うと、感慨深い。特に今回のクライマックス、長谷川さんによるバッハのシャコンヌは感動的だった。

今回は割愛した台詞だが、ラスト、独演で喝采を浴びたゴーシュに楽長が「体が丈夫だからこんなこともできるよ。普通の人なら死んでしまうからな」と声をかける場面がある。この一節をどう解釈すべきか、長らく謎だった。日本中の国語の先生たちを困らせているに違いない一節だが、今回の公演を終えて思うのは、これは文字通りにとるべきではないか、ということだ。確かに、パフォーマーもスタッフも「体が丈夫」だ(私自身は体力は乏しいので、気力でなんとかしている)。舞台に携わる人々は、体力があることが絶対条件である。「普通の人なら死んでしまう」とはまた大げさだが、しかし確かに舞台に立ってお客を感動させるプロは、そのような超人的なエネルギーがなければつとまるものではない。思えばゴーシュ君は、街の映画館で演奏をする小さな楽団の一員であるが、楽長の厳しい指導に泣かされ、動物にあたりちらしながらも日々修練を怠らない、プロの端くれではあったのだ。だからこの一節は、比喩でも何でもなく、宮澤賢治が鋭くも洞察した、舞台芸術家の一面を言い当てていると、私としては考えたい。

観客の熱気は、袋井市の月見の里学遊館の主催事業として上演したゴスペルオペラ『トゥリーモニシャ』で感じたものと似ていて、思えばあれは震災直後に上演した芝居だし、『セロ弾きのゴーシュ』は、前述の通り震災チャリティイベントとして上演した芝居だし、いずれも内容は震災とは全く関係ないのだけれども、しかし、震災と絡んでいることには、何か理由があるのかもしれない。私はモラリストではなく、人間的にはちゃらんぽらんの極みなので、別にそこに自分なりのテーマなどないのだが、ただまあ社会が危機に際してこそ演劇の出番だと長らく考えてきたから、こういう時代には、説得力をもつところもあるのかもしれない。