新年にあたり「演劇」への復帰を宣言する


新年あけましておめでとうございます。

旧年のことになりますが、普通劇場『じぱんぐ零年』、無事終了いたしました。御来場いただいた皆様、御助力いただいた皆様に、厚く御礼申し上げます。

これまで「脱演劇」を標榜してきて、そのコンセプトが間違っていたとは思っていないのですが、『じぱんぐ零年』という「演劇」ならざる「パフォーマンス」を実践した結果、改めて「演劇」に取り組んでみようという気持ちが生まれてきました。

まず表現のレベルでは、舞台上で何かを実践する限り、それが「音楽」であれ「ダンス」であれ「パフォーマンス」であれ、「演劇」的な時間構成(=物語性)を抜きにしては成立しないということが、今回よくわかりました。そのような「演劇」的な時間構成とは、「劇場」的な空間構成と相即した、まさしく観客を舞台に惹きつけ、商品=フェティッシュとしての舞台芸術を成立させるための社会的制度に他ならないと思うのですが、この制度に積極的に加担しつつ、その制度性を異化あるいは脱構築する工夫が必要なのでしょう。『じぱんぐ零年』は、男根的な垂直性を希求するイメージを、「物語」化を回避し水平的に陳列し続けることによって、武田泰淳=司馬遷的な「去勢」を志向した構成になっていましたが、果たしてそれが成功していたかどうかはわかりません。ただどうせなら、最初から意味性にこだわらない「パフォーマンス」ではなく、これをあえて、より意味性にこだわる男根中心主義的な「演劇」形式と銘打って上演した方が、「去勢」という主題が提出しやすかったのかもしれない。そのあたりが反省点です。まあ、お客さんはどのみち「パフォーマンス」ではなくて「お芝居」と受け取ってしまうわけですしね。

ただし、そのような戦略を立てたとしても、やはり東京で舞台をやるのは難しいことだと感じました。東京のお客さんは、上演をストレートに批評するのではなく、上演そのものは括弧に入れ、上演の「意図」や「戦略」や「効果」についての、いわばメタ批評に終始してしまう。いっぽう私などは演劇批評をやるときは、できるだけそのような業界内的ゲームとしてのメタ批評は避け、小林秀雄直系(!?)の印象批評に徹するようにしてきたつもりですが、今や演劇おたくのみならず一般のお客さんですら、上演の「意図」や「戦略」や「効果」、つまり「自分以外の観客にとってこの上演が何を意味するか」を論ずる、表象=代行のメカニズムに巻き込まれている。この感じは、いささか不気味です。商品劇場の旗揚げ公演として『ハムレットマシーン』を上演した1992年は、もっとストレートに「難解だ」とか「不快だ」とか罵倒されたものですが、この20年で、東京の観客にとって舞台は、単なる「ネタ」になってしまったのでしょう。ライターの西河真功氏が『じぱんぐ零年』について「これこそ静岡で上演するべきだ、東京でやっても観客席に緊張感がない」とツイートしておられましたが、上演をまずは「ネタ」として捉え、そのうえで「ネタでしかありえない切なさに、恥ずかしながら、ベタに共感しちゃう瞬間があった」ことを東京の演劇人や演劇ファンたちは「感動」と呼んでいるらしい。その「感動」の先にあるのが、例えば宮藤官九郎的な「はぐれ者たちのコミュニティ」、つまり「ネタ」化したコミュニティだったりすると、「ベタ」なコミュニティに属している地方生活者としては白けちゃうんですな。

宇野常寛さんも指摘できないことを、私がずばり指摘してあげましょう。クドカン的コミュニティ幻想が現実に意味するものとは、高所得階層だけが購入できる類の、有名建築家デザインによる集合住宅の論理そのものですよ。はやりの「コミュニティ・デザイン」というやつですよ。文化芸術を「ネタ」として消費しつつ、それが「ネタ」でしかないことに「ベタ」に共感しちゃったりしながら、田舎臭い人間関係の中で生きるのはまっぴらごめんだけど、死ぬまで孤立したまんまなのも悲しいよな、なんて感じ入り、「ネタ」でしかなかったはずの恋人と「ベタ」に結婚しちゃったりして、まあこういうのもありだよね、なんてそこは論理的に突き詰めずにやり過ごして、ポスト・フォーディズム段階に適応する知識産業の一員としてなんやかんやうまいことやって、挙げ句、相続と貯蓄とローンの抱き合わせで郊外の集合住宅を購入しちゃったりして、「ネタ」と「ベタ」を都合よく入れ替えながら自己を温存させる、いまどきの文系エリートの心象が透けて見えます。こういう人に限って適度に鬱状態ですが、それも含めて、これこそ本当のリア充なんじゃないかという気もします。

このような心的機制を相手にするのは非常に厄介で、異化とか脱構築とか、普通に考えれば通用しないですね。異化や脱構築は、まずは観客が上演を「ベタ」に享受していることを揶揄するものなのに、最初から観客の側が上演を「ネタ」だと割り切っているのだから。ブレヒトやボアールがやったような「アリストテレス的演劇」への批判にはもう意味がない。だって誰も上演に対する「感情同化」など引き起こしていないのだから。今日の東京の演劇ファンにとっては、宝塚も四季も新劇もアングラも小劇場も全て「ネタ」、つまり、単なる消費の対象でしかない。そしてそこでは、「ネタ」を「ネタ」と知りつつ「ベタ」に享受するアイロニカルな姿勢が、いまどきの演劇ファンの心的機制として特権化されている。いや、演劇ファンだけではない。例えば橋下徹のような政治家が支持される精神的背景も同じようなものかもしれない。スラヴォイ・ジジェクが指摘した「イデオロギーをイデオロギーと知りつつ受け入れる」心的機制そのものですな。

そこでは、「ネタ」を提供する作り手と「ネタ」を消費する受け手が共犯関係にあり、「ネタでしかないことをあえて肯定するセンチメント」が「ベタ」な共感を招く稀な瞬間にのみ、上演が観客によって「傑作」として承認され、排他的な共感の輪が完結するというわけです。それを排他的と呼ぶゆえんは、繰り返しになりますが、地方は舞台を「ネタ」として楽しめるほどの文化的・経済的成熟とは無縁だから、というのが答えです。「内容」を括弧に入れた「形式」の反復が都市文化として成立する、という具合に総括してしまえば、これはこの国で前近代から続いてきたパターンだと言えそうな気もします。かくして、本当は貧乏なくせに貧困を問題化することを避け、いつか自分だけは勝ち上がれると信じ、かつそのネオリベ的出世欲をむきだしにはせず、表向きスタイリッシュに無欲を偽装する「草食系」ライフスタイルのアイテムとして、今日の「脱力系」演劇だったり、ゆるキャラだったりが位置づけられている。

このような精神風土に身を置く限り、「脱演劇」などと気取ったことを言っていても、「そうだよね演劇ってネタだよね」という排他的共感を強化することにしかならないでしょうな。むしろ私は、浅田彰に倣って言えば「頑固親父」的に、近代的ディシプリンとして、ベタに「演劇」をやらねばならないのではないか。それが社会秩序を維持するための制度に過ぎないことは十二分に自覚しつつ。なにしろ「演劇」なくしては「脱演劇」もありえないのだから。というか、私は既に静岡でそういうことを仕事としてやっているわけで、そのスタンスに自信を持つべきではないか。そんなことを考えさせられました。まあ、私個人はそういう答えが出せたからいいけど、普通劇場に参加している、首都圏在住の若い面々はこれからどうするのか。そこは、これから考えていかねばならない大きな問題ではあります。もちろん、事は「演劇」に限ったことではないわけだから。