私という売り物について。


鳥取大学で4日間の集中講義「演劇創造」を終えた。質疑応答の時間を設けたのだけれど、ある学生さんから「そろそろ就活なので、大岡さん自身がSPACで働くようになった経緯を教えてほしい」と聞かれた。返答はしどろもどろで、なんとも頼りのないものになってしまった。いかにしてプロフェッショナルになったか、と問われたところで、私の人生は全くロールモデルにならない。ただ、現に仕事をして食っているわけだから、就活に臨む学生さんに、少しはヒントらしきことも言えなければ駄目だろうと反省した。以下、集中講義の反省をこめて、改めてその学生さんに語りかけるつもりで、「働くこと」について考えるところを述べてみよう。

私の場合、大学卒業の時点で就職は最初から度外視していたし、正直に言えば、今に至るまで、まともに働いているという自覚がない。自分がやりたいことをやっているだけで、それが、対価を得る労働として成立しているかどうかということを、本気で考えたことがない。その証拠に、これまで私は賃金交渉というものをほとんどやったことがない。大半の仕事は言い値で受けている。まあ今後は、あんまり安売りすると同業者に迷惑をかけることになるから、多少は報酬の額にこだわらなきゃいけないのかなと思っているが、しかしお金のこととなると、自分の問題なのに他人事みたいな気がしてしまうから困ったものだ。

それどころか、自分から頭を下げて仕事を貰いに行ったこともほとんどない。やはり仕事の大半は、私を信頼してくれている、あるいは、私を心配してくれている方々から融通してもらったものだ。だから、自分が生きていられるのはその人たちのおかげだと痛切に感じていて、賃金の多寡に注文をつけるなんて発想はそもそも浮かばなかった。せめて期待以上の働きをしようと心がけてきただけだ。だから、自分のやっていることに値段がつくかどうか、値段がつくとしたらいくらになるのか、そういうことは自分ではなくて他人が決めることだと思っていて、逆に見積もりを出せと言われたら本当に困る。「相場はこれくらいですねえ」くらいのことしか言えない。

こんな具合だから、いつ食えなくなってホームレスに転落してもおかしくないと思う。ただ、仕事をくれた人たちは、私に何か期待して骨を折ってくれたのだろうから、「期待させる何か」が自分の中にあったことは事実で、強いて言えば、それが私という人間の「労働力」の正味なのだろうなと思う。

ではその「期待させる何か」とは、何かを生産する技能なのかと言えば、とてもそうは思えない。それもなくはないだろうが、しかし、仕事をくれた人たちは大概の場合、私の技能なんてものはほとんど調べもせずに、声をかけてくれたはずだ。では学歴か。だが私は、基本的に自分の最終学歴を開示していない。実は某私立大学を卒業しているのだけれど、それを告げるのはたいてい契約を済ませた後のことだ。そうすると「期待させる何か」とは、要するに、「ちょっと面白そう」と感じさせる雰囲気。これに尽きると思う。

それならば身に覚えがある。確かに私は「面白いこと」が好きだし、できれば自分の手で「面白いもの」をどうにかして作り出せないかといつも考えているし、他人を「面白がらせる」ためには労力をいとわないところがある。根が関西人だし、他人を笑わせることは得意な方だと思うし、ある職場では質問術を身につけたから、これがまた会話の役に立っている。英会話でも外国人を笑わせることができる。ただ、だからといって今風に「コミュニケーション・スキル」が高い、などと自惚れる気はない。それどころか、私は基本的に、他人は暴力的で恐ろしいもので、ひとつ間違うと殺されると思っていて、できれば他人とコミュニケーションなどしたくないというのが本音だ。だが、悲しいかな、人間は他人と関わらずに生きていくことはできない。だったら、そんな怖い顔しないで、笑って楽しくやりましょうよ、と、今日も場を和ませているわけだ。

そうすると、今日まで私を生かしてくれたものの根元は、ずばり恐怖心だということになる。人一倍恐怖心が強く、他人と傷つけあうことを恐れるからこそ、その裏返しで、執拗に「面白さ」を求め続けてきたのだと思う。簡単に言えば、生き方がタイコモチなのだ。ブログのタイトルの「道化的人生」とはそういうことだ。そして、他人に対する恐怖心は、私以外の人々の心の中にも、多かれ少なかれ存在するからこそ、私が提案する「面白いこと」に値段をつけて買い取ってくれる、気前のいい御仁も現れるのだろう。

そんなわけだから、例えば「あなたは俳優か」と問われれば答えは間違いなくNOだが、「芸人か」と問われれば答えは断固としてYESである(大した芸はないけれどもね)。私のポリシーとしては、他人を面白がらせることができればそれでいいので、その手段は別に演劇に限定していないからだ。フィクションかノンフィクションかはどちらでもいいので、別に演説でも漫談でも講演でも構わない。そういう意味では「演劇人」というアイデンティティすら欠落している。肩書は演出家であり劇作家であり批評家だが、そして時に自ら舞台に立つのだが、本当は単純に「パフォーマー」と呼ばれる方がしっくりくる。さらに「エンターテイナー」と呼んでもらえれば、それは私にとって最高の栄誉である。

もっとも一点ややこしいのは、時に恐怖心が強まるあまり、自分を恐怖させるものへの攻撃衝動が抑え切れなくなり、怖いもの見たさで他人を挑発してしまう習性があることだ。リア王の道化は、そこまで言ったら処刑されちゃうんじゃないの、というギリギリの線まできわどいことを言ってのけるが、あの感じは非常によくわかる。私の「面白い」は単なる「楽しい」とは異なり、いくらかの毒が含まれている。お笑い芸人の類とはそこで一線を画しているつもりだ。その意味では時に「アジテーター」であるかもしれない。

かくして私の場合、生来の気質に由来して、否応なしにやってきたことが、そのまま「働くこと」に転化してしまったわけだ。これがこのまま持続するかどうかは他人次第、世間次第だが、今のように国家が衰退過程に入り、競争が激化し格差が拡大する状況では、これからも「万人の万人に対する闘争」はじわじわと表面化し、勢いを増すばかりだろう。不謹慎ではあるが、そうなればなるほど、私などはお座敷がかかることが増えるんじゃないかとつい楽観してしまうのだが、まあただの妄想かもしれない。しかし、やれることは色々ありそうだ。

以上、就活する学生にとって、やっぱり何の参考にもならない話をダラダラと書いてしまったが、それでもヒントになることは既にいくつか示したような気がするから、ここで筆を置こう。