日本的スノビズムへの違和感。


ツイッターで演劇関係者や演劇ファンたちが情報交換しているのを見ると、首都圏の小劇場シーンが相変わらず活況を呈していることがわかって、微笑ましい。しかし同時に、次々に作品を「消費」してゆくような姿勢とも感じられ、違和感を覚えるところがある。

もちろん基本的な前提として、人気が出てきた新しい劇団を追いかけたり、歴史的に評価が定まっている劇団を追いかけたり、話題性の強いプロデュース公演に足を運んだりして、それなりに現代演劇の全体像をつかめていない人が、簡単に演劇関係者や演劇ファンを名乗ってもらっては困るということがある。特に演出家や俳優はただでさえナルシストなのだから、自分たちの活動に淫すれば淫するほど、はたから見ていてキモい。だから、なるべく自分たちの外に目を向け、たくさんの舞台に足を運ぶのは悪いことではない。

だが、ひとつわからないことがある。なるべくたくさんの演奏を楽しんだり、なるべくたくさんの絵画を見に行ったりすることには、何の不自然さも感じない。演奏を聴くこと、絵画を見ることは、それ自体が愉楽である。そこでは、聴くことや見ることがそのまま目的となっており、意義ある行為である。では、演劇を見ることというのは、それ自体が目的となる行為なのだろうか。演奏や絵画を鑑賞するように、数をこなすことに何か積極的な意味があるだろうか。

いつも言うことだが、古代ギリシアの演劇は、元来は神に捧げる祭祀であったが、徐々に世俗化し、市民同胞に対して問題提起をおこなう場となった。そこでは、人間社会が解決不能のアポリアを背負っていることが想起され、そのアポリアに挑む英雄を襲う悲劇的運命に接して、人々はカタルシスを得た。そこでは、もちろん朗誦や舞踊や歌唱を楽しむことも大切だったろうが、最も重要なのは、それらを通して解決不能のアポリアの存在を認識することだったのではないか。さかしらな人間が叡智を恃みとする傲慢を戒め、神によってしか解決しえない領域が存在することを、まざまざと直視することだったのではないか。

答えの出ない問題について、自分なりにじっくりと時間をかけて、考える。大事なのは、芝居を見ることそのものよりも、芝居を媒介として物を考えることなのではないか。だから、数をこなすことも大事だが、決していちばん大事なことではない。これは読書に通じるところがある。ショーペンハウエルは多読や乱読を戒めていたと思うけれども、これに比して、昨今の「速読」ブームはほとんど病気である。どこかに、利益を生む「情報」が眠っているのではないか。自分はその「情報」を見落としているために、損をしているのではないか。まるで強迫神経症だ。本ばかり読んでいないで自分の頭で考えろ、というとすかさず「音声中心主義」だ、「現前の形而上学」だ、という批判が飛んできそうだが、でも処世訓としてはこういう考え方には理がある。

演劇に話を戻すと、最近の演劇関係者や演劇ファンはどうも、身体だの技術だのということを言いすぎているのではないかという気がする。身体や技術そのものを主題にして意味があるのは、創り手の側にとってだけであり、観客がそこにばかり目を向けてしまうと、これはフェティシズムに陥ってしまう。しかし実際、これは日本人に顕著なことだと思うが、多くの人々が芝居の内容ではなく、俳優の演技の巧拙に目を向けている。演劇に限らない。スポーツファンは、ひいきのチームや選手に対して、皆が皆、評論家のように技術論を語るではないか。このように、内容はそっちのけで、表に現れたかたち(様式や形式)ばかりが重視される傾向を指して、コジェーヴは「日本的スノビズム」と呼んだのだ。ひょっとすると、音楽ファンや美術ファンも、例外なくこの「日本的スノビズム」の眷族なのかもしれない。そして今日も熱心にアーティストの「テク」について論じているのかもしれない。

思えばソフィストとは、弁論術が自己目的化してしまった教師たちではなかったか。今日も、「ロジカル・シンキング」やら「プレゼン術」やら「交渉術」やら、自己目的化した「スキル」が切り売りされており、誰もが、じっくりと思考することから逃避している。「問題解決力」が重視される一方、いかなる解も出しえないような難問は、最初からその存在が見落とされている。ビジネスの世界では、髪型・服装・言葉使いから、雑談における話題の選び方までが様式化されており、その様式を徹底的に踏襲した上で、ほんの少しのスパイスとして「個性」を乗せることが奨励されている。能役者のような高度な技芸であると嘆息せざるを得ない。

かくして、「日本的スノビズム」の反復によって、「巧拙」を競う芸術商品が、次々に生産され、次々に消費されてゆく。そこではただひとつ〈自分で思考すること〉が、閑却されている。