引越し、結婚に続きまして、本日、大岡は40歳になりました。

孔子先生は、吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、と言っておられて、この「志学」と「而立」の間に15年のブランクがあるところがリアルだなあ、と思っておりましたが、はてさて、私は、40歳で「不惑」の域に達することができるんでありましょうか。おかげさまで30代で食えるようになりまして、静岡に定住もして、結婚までしちゃったわけですが、こと仕事に関しては、これから何をどうしていけばいいのか、迷いっぱなしであります。しかし迷っている割には、さしたる考えもなく流されっぱなしで今までやってきまして、それを「フットワークが軽い」と形容すると気分がいいんですけど、「決断を回避している」と形容すると途端に胸が悪くなりますね。

私の同世代は、バブルと不況の狭間で大学を卒業した世代でして、自己実現願望をさんざん煽られながら梯子を外されたようなもので、未だにモラトリアムから抜け出せない人が結構多いんですよね。ジタバタしながら何ひとつ達成できずにもう20年が経って、おじさんおばさんと呼ばれても、それ相応に歳をとったという実感がわかない人が多いんじゃないかな。たぶんあちこちに、いったいどこで道を間違えたんだか自分でもわからず、心の底にフラストレーションを抱えたまま、相談する相手もおらず、相談しても首を傾げられるばかりで、何の指針もなくぼんやりと40歳を迎える人たちがいるような気がします。

今にして思えば、私の同世代は、日本経済が成長から衰退へと向かう転換点で、ちょうど成人しているわけです。世の中の推移に適応できず、人生の指針が定まらないのも、仕方がないと言えば仕方がないように思います。そして自分もそんなひとりだなあとつくづく思いますが、そんなふうに自分を甘やかしたって腹の足しにもなりゃしませんから、これから何をやりたいか、なんて発想は捨てて、これまでのところいちばん長続きしたものは何かと問うて、その答えが自分自身の足跡を証立てるものであり、今後を照らし出すものだと考えるしかないのかもしれませんね。「不惑」ってたぶんそういうことなんだろうと思うんですが。

ところで、お嫁さんがくれた誕生日プレゼントは、通販生活の定番商品「唐十郎の私家版座椅子」でした。今まさにこの座椅子にもたれてPCに向かっていますが、快適です。唐十郎先生にあやかって、今年はちょいと物書きに復帰しようかと思います。