福田和也『日本の家郷』を読む。


ジョルジュ・バタイユが書いたポルノ小説『マダム・エドワルダ』を演出することになり、射程を広くとって、そもそも文学における20世紀モダニズムをどう考えたらよいのか、ここのところ頭を捻っているんだけれども、そういえば!と思い出し、福田和也『日本の家郷』(洋泉社新書)を読んでみた。特に重要なのは第3章「虚妄としての日本」で、ここで福田氏は、ひとことで要約すれば、パウンドやモーラスやハイデガー、日本では萩原朔太郎や保田與十郎を例にあげ、現実に縛られない詩的な空中楼閣を構築しようとするサンボリズムあるいはモダニズムの精神が、政治的にはファシズムに帰結すると分析し、そのうえでそれでも尚、モダンな作為の産物である「虚妄としての日本」の側に立つべし!何か文句あっか!と宣言している。

福田氏の気分はわからなくもない。現代芸術や現代文学をどのような視座で捉えるかという際に、彼は脱構築じゃなくて、解釈学の側に立つわけだ。私もジョージ・スタイナーに傾倒していたことがあるから、テクストの矛盾点をあげつらって、ああも読めるけどこうも読めるよ、なんてやる脱構築のゲームよりは、一見すると多義的なテクストを、博覧強記を活かして西洋的な知の全体性の中にビシッと位置付けてみせる解釈学の作法の方が、なんか男らしい(笑)と感じていた(20代の私はハイナー・ミュラーの戯曲を読み解くという作業に没頭しており、スタイナーの著作から得るところが大きかったという事情もある)。本書解説のスガ秀実氏の言葉を借りれば「弱々しいニヒリズム」に陥らなくて済む、というか。実際、学生の頃に「ポスト構造主義」にかぶれてた連中はみんな「弱々しいニヒリスト」だったからイライラさせられたんでね(笑)。もちろん、知の全体性なんて言ってもしょせんは「虚妄」だ。しかしそんなことは承知の上であえて「虚妄としてのヨーロッパ」に賭けたことにガダマーやスタイナーの本領があり、同様に、「虚妄としての日本」に賭けたのが保田與十郎であり小林秀雄であった、という話なのだろう。

ただそうすると、この「虚妄」に賭ける決断主義とは、スガ氏も指摘する通り、ロマン主義的イロニーそのものではある。ネットにはこんな引用が落ちていた。

福田 僕は20代前半ぐらいに、バタイユとか、ブランショとか、前期ハイデガーとかを、けっこう熱心に読んでいたときに、革命ということを考えていくとどうしたって、バタイユは特にそうですが、ファシズムになってしまうんですよね。だから逆に、革命というためにはファシストであらねばならないということが非常によくわかってしまって、その認識に誠実であるためにファシストと称しているんですけれど。

「革命というためにはファシストであらねばならない」という言い回しが、まさしくイロニーである。「あらねばならない」ですか……。ここで、読み手としてはさすがにたじろいでしまう。もちろん、ファシズムは悪だ!なんて言いたいわけじゃない。だけど、なんだろ、つまり福田氏が言う「モダニズム」とか「ファシズム」とか「日本」とかってのは、そうすると全部ネタってことで、それって俗流化した形でなら、現在のネット右翼たちがやっていることそのものではないか。彼らは、ガチ天皇崇拝なんじゃなくて、言うなれば“ネタとして”排外主義を楽しんでいるわけだろう。このようなイロニー的姿勢は、福田氏がデビューした90年代なら珍しかったかもしれないが、今はむしろありふれているのではないか。

ただひとつ同意できる点として、バタイユの思想は下手するとファシズムに転化するというのは、確かにその通りだ。「アセファル」なんてのは草の根ファシズム団体みたいな秘密結社だったし(だから面白いんだけれども)。西谷修氏や小林康夫氏のような、中道左派的(?)スタンスの知識人は、こういうバタイユ論は嫌がるかもしれない。実際、バタイユに触発されて書かれたブランショの『明かしえぬ共同体』には、「他者の死」に寄り添うことによる共同体の形成を強調し、「この私の死」を問うことに現存在の現存在たるゆえんを見た、ハイデガー哲学と対決するというモチーフが潜在している。ただそのブランショも、若き日にはやはりファシズムに傾倒していたらしい。

で、私としてはバタイユの思想は、ファシズムそのものというよりファシズムのパロディであるという解釈で、一線を引いてみたい気はするんだけれども、でも、パロディであれ何であれ「ネタとして享受する」ことこそファシズムの原理そのものではないかと、福田氏に反論されそうな気もする。確かに、ブレヒトがヒトラーに敗北したのはこの点だろう。「みんな騙されてるぞ!英雄なんてネタだぞ!王様は裸だ!」とファシズムを異化し批判しても「ネタとわかったうえで楽しんでますが何か?」と大衆から切り返されてしまう――これが、私の考えるブレヒトの限界である。ではやはり、ファシズムに帰結する危険を覚悟のうえで、ネタを享受する心的機制を厭わず、私という創作家・批評家もまた、モダニズムの詩的世界を選択すべきなのか? だけど、日本軽佻派が日本浪漫派になっちゃったら洒落にならないよ(笑)。このあたり、福田和也という人と、一度じっくり議論してみたいと思った。