歩く人、石川淳 ~『焼跡のイエス』を読んで~


石川淳『焼跡のイエス』は、小説中の話者の主観を取り去って冷静に起きたことだけを取り出してみれば、みすぼらしい少年に話者が財布をかっ払われた、ということで話はおしまいである。だから、話者がその少年に「イエス・キリスト」を見出してしまうのは、「ネタ」といえば「ネタ」である。終始一貫して軽妙洒脱でユーモラスな文体が、その「ネタ」感を増幅させている。これを大上段に「穢れが聖性へと転じる弁証法」などと理屈づけたくないと感じるのは、そのような解釈を施せば施すほど「ネタ」が「ベタ」へ転じ、粋は野暮に転じてしまうからだ。だから、石川淳の小説は、迂闊に解釈したり批評したりせず、ただもう虚心坦懐に、文章を追うことを楽しめばよいのだろう。まずはそう思う。

ただひとつ、ここで「ああそうだよな、焼跡の少年がイエスであるわけがないよな、ネタだよな」とニヤニヤした瞬間に気がつくことがある。「焼跡の少年がイエスであるわけがない」、それはそうかもしれないが、しかし、ではそう言いうる根拠がどこにあるのか。イエスとはどのような人物なのか、我々は、よく考えてみればほとんど何も知りはしない。我々が既知の存在と思い込んでいる「イエス」もまた、福音書の作者たちや、キリスト教徒たちの妄想が作り上げた「ネタ」ではないとどうして言い切れるのか。

とはいえ、歴史に名を残すかのイエス・キリストが、フィクショナルな「ネタ」でしかないと断言できるかといえば、もちろんそうは言えないような気がする。余計なイメージに取り巻かれ、随分と手垢にまみれてはいるだろうが、それでもイエスはイエスであり、それはもう「ベタ」に奇跡的な存在なのだろうと考えたくなる。

そう考えると、「焼跡のイエス」がどうしてイエスであってはならないのか、なぜあちらが「ベタ」なのにこちらが「ネタ」なのか、説明がつかなくなる。イエスは、人々がそう信じたからこそ、キリストであると認められている。それが真実か妄想かをあげつらってもさしたる意味はない。肝心なことは、キリスト教徒たちがイエスは即ちキリストであると「ベタ」に信じてきたという一事だ。その発端は当然ながら、原始教団のメンバーによるイエスへの信仰に由来する。とすると、話者が敗戦後の闇市で、ひとりの少年をイエスであると心底信じてしまえば、違いは歴史が経過したか否かの一点となる。鰯の頭も信心から、というではないか。事実、ローマ帝国統治下のエルサレムと、焼跡・闇市が広がるGHQ占領下の日本と、状況に大した違いはないのかもしれない。イエスは、本当は天から降ってきたわけではないだろう。きっとこのような、貧窮に苦しむ卑俗な現実のただなかに、どこからかふらりと現れたのだろう。

思えばイエスは、境内に店を出す商人たちに激昂し、狼藉を働いた。少年も闇市で騒ぎを起こした。マルタの妹マリアは、イエスの足に香油をそそぎ、自らの髪でぬぐった。太宰治が描くユダが指摘するように、そのときイエスの頬が赤らんでいたかどうかは定かではないが、少年はより率直に、鼻息荒く女の足にとびついた。イエスは、ペテロの否認やユダの裏切りを鋭く見抜いた。少年は、憤怒の面持ちで話者に飛びつき、パンを投げつけ財布を奪った。このような少年とイエスの懸隔は一見大きいようだが、その実、小さいのかもしれない。ユダヤの僧侶やインテリたちの言行不一致を糾弾したイエスは、ひょっとしたらこの少年のように、善悪の分別より以上に、動物的な感覚で行動していたのかもしれない。それでもイエスと少年の間に懸隔が生じるとしたら、それは、イエスを語り継いだ者たちの粉飾によってくっついた贅肉によるものかもしれない。

だとすると、少年をイエスたらしめるか否かは、つまるところ、少年の粗暴なるイノセンスに感嘆する話者が、「ベタ」にこの奇跡を信じ切るか、「ネタ」として退けてしまうか、その気持ち一つということになる。だが、ここがまさに石川淳の江戸っ子らしいセンスというべきか、どちらとも言い切らないうちに、話は唐突に終わってしまう。「ネタ」とも「ベタ」とも確信を持てぬまま、偶然による邂逅は、偶然によって終止符を打たれる。物語といえるほどの物語は成立を妨げられる。小説という表現形式の真骨頂である。

いや、おそらく、我々の目にする有象無象の中に、確かにイエスも存在するし、マリヤも存在するのだ。ただ、一瞬の奇跡を超えた歴史的存在として、彼らをイエスたらしめマリヤたらしめる諸条件が整わなかったという違いがあるだけだ。そう考えると、我々の見慣れた怠惰な日常も、途端に奇跡に満ち満ちたものに見えては来ないとも限らない。その奇跡を垣間見る瞬間を心待ちにしながら、石川淳が描く話者たちは、今日もあてどなく街中を闊歩する。その奇跡が妄想にすぎないのではないかという疑いはもとより承知の上であり、その自己懐疑は話者の文体を貫く諧謔精神に、既に反映されている。語り続けながら、語る自分を嘲笑しもするこの二重性は、一人称という形式を要請する。かくして、好奇心に促されて歩行を続ける一人称の運動性が、石川淳の短編小説の特性である。この歩行は、戦前・戦中・戦後を貫いて続けられた。