普通劇場で非公開の読書会を毎月やっていて、この間は現代文学シリーズで、最終回で小説家・多和田葉子と詩人・中尾太一を扱ったのですが、レポートを書いたので公開してみます。

 

●多和田葉子『旅をする裸の眼』について

共産主義国ベトナムのエリート少女が、偶然に翻弄されながらヨーロッパを転々とし、主には旧宗主国フランスで、人生という旅を続ける。少女は皮肉にもフランス語を解さないため、〈聞くこと〉も〈話すこと〉もままならぬ状況で、印欧語圏のポリフォニーをかいくぐり、ひたすら〈見ること〉を頼って彷徨する。そこで少女の〈眼〉が吸い寄せられるのは、映画館のスクリーン上のカトリーヌ・ドヌーヴである。しかし少女は失明し、今度は〈聞くこと〉による人生行路を強いられるが、そこは描写されない。代わりに、〈聞くこと〉に徹した彼女は、その人生の終局に当たってついにドヌーヴその人に代わり〈見る〉存在から〈見られる〉存在へと転換する(だが、それもほんの一瞬の出来事に過ぎないことが示唆されてもいる)。この終わりなき旅路は、カフカの小説『アメリカ』を想起させる。『アメリカ』の主人公、英語をうまく操れないロスマンは、最後に劇場に俳優として雇われ、やはり〈見る〉存在から〈見られる〉存在へと転換していた。

それにしても「裸の眼」とは奇妙である。瞼に覆われていない「眼」は、すなわち「裸」なのだから。だが、私たちの「眼」は本当に「裸」であろうか。我知らず身につけた様々なヴェールで覆われていないと言い切れるだろうか。字幕をたどって台詞の意味を理解し、俳優の演技に頷き、物語にひきつけられる私たちは、本当にドヌーヴを〈見ている〉だろうか。怪しいものである。「語学」による洗脳を拒み、常に世界に対して開かれている少女の「裸の眼」は、受苦=情熱(passion)としての生を指し示している。

 

●中尾太一『数式に物語を代入しながら何も言わなくなったFに、掲げる詩集』について

『旅をする裸の眼』が、少女からひとりの映画女優に宛てられた、届くことのない手紙だったように、中尾太一の詩篇もまた、恋人、子供、父親、架空の人物、自分自身……といった、特定の誰かに宛てた、届く保証のない手紙のようなものだ(それは当然読まれるという前提で「捧げる」のではなく、いつか読まれることを期待して「掲げる」しかないものだ)。第二人称へと向けられた関係の絶対性だけが、ここではかろうじて信じるに値するものとなっている。そのような書き手の意識のありようを中尾は「絶対抒情主体」と命名する。確かにここで綴られるのは、古典的とすら言いたくなる、あまりにもあからさまなセンチメントを歌う叙情詩である。逆に言えば、第一人称の感慨を無条件に普遍化させる叙景詩や、第三人称の客観性を暗黙裡に了解する共同性を前提とした叙事詩は、中尾の選ぶところではなかった。ただ、そのセンチメントを短歌的定型に回収することへの恐れが、彼をして、過剰な長さの詩行を選択させている。このこだわりに、なにかしらの現代性が垣間見えると言えば言えよう。

 

●両著の差異について

多和田と中尾が、ともども「届くかどうか不明の手紙」という形態を選んでいることは興味深い。不在の第二人称に向けられたモノローグ。それはまるで、ゲッセマネのイエスの「神よ神、何故我を見捨て給うや」(エリ・エリ・レマ・サバクタニ)という絶叫のヴァリエーションのようだ。あるいはここで、『アンネの日記』が「キティ」に宛てられた手紙として書かれていたことを想起してもよい。ただ、同じく迫害という絶望的状況に立たされながら、イエスの叫びがどこかしら芝居がかっていることに対して、アンネ・フランクの鋭敏な観察眼に貫かれた叙述には不思議な軽妙さがある。それと似たような違いが、中尾と多和田の間には存在する。中尾は「理解すること/理解されること」への希望と絶望を往還してやまないが、多和田はそもそも「理解すること/理解されること」への欲求を放棄している。このため、中尾による第一人称が語りかける相手は妙に生々しい存在であるが、多和田が造形した少女が語りかけるのは、単なるスクリーン上の女優に過ぎない。少女は、ただ〈見る〉ことを繰り返し、時に〈発見される〉ことを夢見る。風に舞う乾いた砂粒のような少女の生を、ひょっとしたら中尾は「数式に物語を代入しながら何も言わなくなった」と解釈するのかもしれない。中尾の叙情はなんだかしっとりと湿っている。乗り越えようのない食い違いだと言わざるをえない。この食い違いが、今回の味わいどころであった。