エジプトで何が起きているのか?


エジプトの治安部隊による、モルシ前大統領支持派のデモの強制排除に端を発し、エジプト全土で騒乱が広がっているようだ。
 
そもそも北アフリカ・中東諸国で、東欧のような「民主化ドミノ」を引き起こせば、イスラム原理主義が強まって政情不安になることは、火を見るより明らかだったはず。裏返せば、そのような衝突を押さえ込んで、資源ナショナリズムに支えられた国民経済を維持するために、「独裁」は必要悪だった。そして欧米の大資本がこの地域で画策してきたのは、「民主化」を大義名分とした戦争をしかけ、インフラが破壊された後に、「復興支援」ビジネスを獲得すること、更には、たとえ戦争がしかけられなくても、「独裁」打倒「民主化」推進を支援して政情を不安定化させ、腐敗した「利権」を解体するという名目で国営企業を解体し、「規制緩和」「民営化」「自由化」を促進して資本投下し、資源ビジネスを略奪することだろう。その根底にはおそらく、石油から天然ガスへと世界のエネルギー源が徐々にシフトしていく中で、21世紀における天然資源の争奪戦が、既に始まっているという事情があるのだと推測する。
 
チュニジアの「ジャスミン革命」を皮切りとした「アラブの春」については、脱原発デモなどほとんど報道しない日本のマスコミがなぜか好意的に取り上げており、ということはすなわち、眉に唾をつけて見ておかねばならないということだと思う。むろん国ごとに性格は異なるのだろうが、「ジャスミン」のようなシンボルを動員する運動の方法は、00年代の中欧・東欧における「色の革命」とあまりにも酷似している。「色の革命」に対しては、ジョージ・ソロスのOpen Society Instituteあたりを経由して、アメリカ国務省が介入・工作をおこなったことが噂されている。確かに「色の革命」後、これら旧共産主義諸国で、欧米の大資本にとって有利な、投資環境の整備が進んだことは間違いあるまい。「アラブの春」についても、表面的には「民主化」が進んでめでたいことのように見えるが、問題は、これにより北アフリカ・中東諸国の経済状況がどう変化するかだ。とりわけ、これから天然資源の売買によって利益を得るのは誰なのかに注目せねばならない。
 
「エジプト革命」後のエジプト情勢は、どのように推移するだろうか。モルシ前大統領派=ムスリム同胞団は、農村を基盤として貧困層の支持を受けている。他方、軍=暫定政権=世俗派は、ムバラク政権時代の残党を多数含みつつ、おそらくは都市ブルジョアの支持を受けているのだろう。暫定政権はムスリム同胞団の非合法化を狙っているようだが、人口8000万人のうち1000万人を支持者に持つとも言われているから、ムスリム同胞団の反発は必至であり、対立は先鋭化し、ことによると内戦のような悲惨な事態へと進展しかねない(トルコの情勢も絡んでくるだろう)。
 
このような状況のモデルとして注目すべきは、やはりアフガン戦争後のアフガンであり、イラク戦争後のイラクだと思う。いずれも「独裁」を打倒し「民主化」した後に、国内の対立が深まり、政情が不安定化し、テロが頻発している。ただしアフガンもイラクも戦後の経済は堅調で、今年の経済成長率の見込みはアフガンで3%、イラクで10%程度である。アフガンは天然ガス、イラクは石油に依存しているから、資源価格の上昇に伴った動きであろうが、破壊されたインフラの再整備という需要が存在することも見逃せない。いずれにせよ、戦争によって「スクラップ&ビルド」が達成されるという残酷な現実がそこにはある。
 
エジプトの場合も、サダトやムバラクが担ったような開発独裁は、順調に発展すれば、却って経済の足かせになる段階がやってくる。そこで「大きな政府」を縮小し「自由化」「規制緩和」を進めれば経済活動が活性化され、いわゆる成熟化が達成されるのだろうが、そのために「革命」に端を発する流血沙汰は不可避だということか。
 
しかし厄介なのは、現在の状況で開発独裁を脱するとは即ち、グローバル金融資本の参入を許すことであり、彼等は当然ながら株主の利益を最大化することを目標としており、国民生活の安定に貢献する気などない。こうなると、グローバル・エリートの就業機会は増えるかもしれないが、同時に、経済格差が拡大する可能性は高い。経済成長が維持できれば、それでもトリクルダウン効果が期待できるかもしれないが、成長が止まれば、たちまち格差に由来する社会不安が増大する。日本が好例ではないか。田中角栄という「独裁」的な「利権」政治家を追放した後、中曽根民活、金融ビッグバン、小泉構造改革、TPPと、国民経済を解体し外資を参入させる「改革」が延々と続いてきたが、その結果何が起きたか。バブル経済が崩壊し、長期不況という未曾有の事態に突入した結果、我々に実感できたのは経済格差の拡大でしかなく、今や排外主義が台頭している。
 
かくして我々は、グローバリゼーションの時代における、国民国家/国民経済の機能不全に直面している。「エジプト革命」の担い手であった若者たちは、独裁者の腐敗に怒り、言論の自由を求め、立ち上がったのであろう。その志は高潔だったかもしれないが、客観的・結果的には彼らが選択したのは、「平等」を犠牲にして「自由」を拡大させる過酷な経済競争と、その副産物としての社会不安、格差拡大だったのかもしれない。私は別に、かつての「独裁」が正しかったと言いたいわけではない。ただ、「独裁」は悪、「民主化」は善、という図式に対して、少々疑義を呈したかったまでである。
 
最後に、全くどうでもいいことだが、このような状況で、「動員の革命」だとか何とか言って、「独裁」の終焉を歓迎する日本の左派、市民派、プチブルの良心は、完全に手玉に取られている。日本の左派知識人は本質的にアナキストであり、政治に関心はあっても経済には関心がないから、このようなプロセスに対して国民経済の防衛を主張することができず、「市民」と「市民」が激突するという悲惨な状況に対して、何も言うことができずにいる。国政選挙の投票率が低下するのもむべなるかな、である。