教育――個性という名の仮面を被らせること 


城繁幸『若者はなぜ3年で辞めるのか?』によれば、バブル期の新卒は「なんでもやります」と言えば採用され、下手に知ったかぶりなどしない方がよかった。が、氷河期以降の新卒は、いわゆるEQを評価され、資格や技能を求められ、自分を売り込むプレゼンテーションを強いられ、さらには、「御社のリソースを活かした事業計画」だか何だかまで考えてこいと注文をつけられるんだそうで、「あなたには私しかいないし、私にはあなたしかいない」を何遍も繰り返し、やっと採用された挙句「君が立案したプロジェクトが採用されるのは10年後かな」と無情にも突き放されるんだそうで。しかし、その新卒君が考えたプロジェクトは、現在の市場環境と技術水準を前提としているから、10年後には当然使い物にならなくなる。だったらこんな会社はさっさと辞めて、自分のアイデアをただちに実行に移すべく一旗揚げるか、という気持ちになってしまうのも無理はない。かくして、若者は3年で会社を辞めてしまう。採用における過剰な「個性」重視と、社内における厳然たる年功序列とが、矛盾してしまっているのだ。

これは大学入試でも同じことが言える。中堅以下の大学は、少子化で戦々恐々としている。できれば、一般入試以前に学生を確保したい。そこで、早いところはもう夏の時点で、AO入試や推薦入試を実施する。その際、教科の試験の代わりに小論文が課されることが多いのだが、この小論文にどう対処すべきと言われているか。学習参考書の中で「小論文の神様」と言われているのは樋口裕一だが、この御仁は「ウケを狙ってあえて少数派の意見を書くのはアリ」だとか、「思い当たる事例がなければ経験談をでっちあげるのもアリ」だとか、そういうことを書いている。つまり、自分自身を偽り、過剰に演出し、目立たせることが奨励されている。そうやって作られるのが「個性」なのだ。

もちろん、難関大学はとっくにそんなことは見抜いている。京大は後期日程の小論文を廃止し、東大も大幅に縮小した。教科の出来は良くないが、特別に秀でたところがある。そういう才能の持ち主を抜擢しようというのが、小論文入試の本来の趣旨であった。だが京大でも東大でも、いつからか、後期日程(小論文入試)の合格者は、前期日程(一般入試)を受験して後一歩で不合格となった層と重なっていることが判明した。つまり、小論文で高得点を取るのは、教科でも高得点を取っている受験生となったわけだ。そうなったのは、つまり、予備校をはじめとする受験産業が、小論文のマニュアル化を進めたからだ。その急先鋒が前述の樋口である。その結果、東大や京大に、小論文でしか受からない才能の持ち主が入学することはなくなった。皮肉なものである。

かくしていまどきは、このように過剰に演技することで作られるのが「個性」であり、そのような演出によってウケを狙うのが「コミュニケーション能力」とされている。ビジネスの世界では「ホスピタリティ」が重視されているが、これにしたって、顧客の先回りをしてサービスする過剰な演出のことを指しており、またその演出に過剰に感動してみせるのが、目利きの証であるとされている。売り手と買い手の双方とも、本音などはそっちのけで成り立つのが、麗しき「ホスピタリティ」だ。顧客対応の「笑顔」までマニュアル化される事態を社会学は「感情労働」と呼んだが、こんなのは、どんな業界でも普通のことになってしまった。

つまり、私のような演劇業界に身を置く人間の目から見ても、現在の日本社会は過剰なまでに、「個性」と名指された〈演技〉を強いられる社会になっており、その〈演技術〉が即ち「コミュニケーション能力」と呼ばれているわけだ。演劇人が、学校教育や人材育成の現場に入り込む機会は以前より格段に増えているが、それは、以上のように社会全体が〈劇場化〉した結果であると言えよう。

ところで、教育もまたこのような〈演技術〉を覚える場ではある。諏訪哲二が『間違いだらけの教育論』で喝破したように、教育の根源には暴力がある。子供にアプリオリに「学びたい意欲」があるなどというのは嘘っぱちだ。「教える―学ぶ」関係は暴力的に強制されるのであり、その関係が成立したうえで、初めて子供ひとりひとりの「個性」なるものが評価されることになる。教師と生徒との関係は、まさしく演劇的な関係だ。双方とも「大人が教え子供が学ぶ」というルールを共有するプレーヤーである。その演劇的な関係の中で、社会秩序に従って生きるための様々な〈演技術〉が教えられ、学ばれる。

だが近年は、この社会秩序そのものが揺らぎつつある。コツコツと働けば、勤続年数に伴って賃金が徐々に上昇し、ローンを組んで家を買うことができるという、高度成長以来のライフプランは既に破綻している。これによって、教育における〈演技術〉の強制も、困難になってきたと思われる。教育の解体は、片や授業崩壊、片や不登校という形で表面化している。

前者は、学習するという〈演技術〉をいくら身につけたところで、得られるメリットが少ないことを直感してしまった層によるボイコットであろう。後者は、得られるメリットが少ないかもしれないのに、それでもなお〈演技術〉を身につけねばならないというモラルに縛られた層が直面する、自己矛盾の結果である。

後者についてもう少し述べてみる。例えば、トイレで昼飯を食べる学生は、必ずしも、他人と関わるのが面倒だからトイレにこもるわけではない。その心理は複雑で、「アイツは学食で一緒にお昼を食べる友人がいない、と、みんなから見られるのが嫌」なのだそうだ。そのくらい、いまどきの若者は他人から「コミュニケーション下手」というレッテルを貼られることを恐れていて、そのくらい、「積極的にコミュニケーションせよ」という同調圧力は強化されている。そして、そのような心理的圧迫に耐えられなくなった子供たちが、不登校に陥るケースが多いと考えられる。

もちろん、だからといって「本音で生きよう」などと馬鹿げたことを言うつもりはない。「偽善」を排斥し「本音」をさらすことで社会を成り立たせようとしたら、暴力性が露となりスターリニズムに帰結するということを、仲正昌樹は『不自由論』で鋭く指摘している。だから、もちろん人々の生活に〈演技〉は必要だし、〈演技術〉を介して共存をはかるのが、公共性を尊重する近代社会の特性であると言ってもよいのだ。ただ、社会秩序が崩壊し始めている現在、労働市場における過酷な競争を勝ち抜くための条件として、〈演技術〉はひとり歩きを始めている。この先に何が待っているのか。演技することは大切だが、それが自己目的化してしまうと、人間の精神は変調をきたすのではないか。そのことを社会に警告せねばならないのは、まず第一に演劇人ではないかと思うのだが、如何だろう。