小林よしのり『ゴーマニズム宣言PREMIUM 修身論』(マガジンハウス)を読んで、改めて、よしりんは若者・子供のことがよくわかっているなあ、と唸りました。まあ、読者層の顔が見えているのは、マンガ家としては当たり前のことなんでしょうね。

いまどきの若者・子供は、物心ついたときから親や教師から「人生の目的は君自身が見つけるのだ」みたいなことばかり言われていて、また消費社会も「あなたの好きなものをチョイスしてね♪」と日々語りかけてくるので、その結果、自意識が肥大して自分でもコントロールできなくなり、いじめや学級崩壊や不登校を引き起こしている、というのが実情だと思います。従って、いま若者・子供にとって必要なのは、反動的と見られても構わないから「これが人の生きる道だ!」と、明確な価値観を提示してくれる大人じゃないかと思います。小林よしのりという人は、常に自分が信じる価値観を主張し、同時にそれを「ゴーマンかましてよかですか?」という一言を添えて相対化してきた、たいへん立派な大人であると私は評価します。

ところが、教育産業に携わる人々に限って、上記のような若者・子供の現状に全く気がついていないことには愕然とさせられます。「人生の目的は人それぞれ」みたいなきれい事を言うのは私は逃げだと思うんですが、教師がそんなことばかり言うものだから、却って「でも本当はカネが大事じゃないか」「高学歴の方が有利じゃないか」という本音がじわじわと力を得ることになるわけです。いちばん最悪なのは、学生運動経験者が得々と語るところの「学校の勉強は役に立たない」という御託ですね。「お父さんも昔はワルだった」「俺は腕っこひとつでやってきた」という、オヤジの自慢話でしかありませんね、こんなものは。「いまどきの教育はマルバツ式だから、若者は自分の頭で考えることができない」なんて未だに言う人たちがいるんですが、「マルバツ式」管理教育が施されていたのは、もう20年以上昔の話でしょう。大学入試も入社試験も、ここ20年でずいぶん様変わりしているんですよ。むしろどこへ行っても「もっと個性を!」とやかましく煽られるばかりです。しかし「個性」を求められれば求められるほど「自分」が何者なのかがわからなくなりますな。結局、お父さんもお母さんも学校の先生も予備校の先生も、自分が若かった頃のイメージでしか、現実を見られないんですね。

最近、ワークショップという学習手法に関して限界を感じるのは、どんなテーマを扱っても、最後は「人それぞれ」相対主義、「個性尊重」民主主義にしか帰結しえないということです。それより、反論を覚悟しつつ「真・善・美」を主張できる人こそが、現代の教育者に相応しいという気がします。まずは大人の側から何か積極的に提示しなければ、若者・子供は順応することも反発することもできません。ヘーゲルの弁証法とは、このような、激しい相克によって進展する対話の技法を指しているのだと思います。

私の場合は一介の民族派として「帝国復活論」を執筆し「戦前の日本の価値観こそが正しい」と主張しましたが、ともかく、いい歳をした大人が「人それぞれ」なんて口にするのはみっともないと思っています。イデオロギーを嫌悪するあまり、他人を説得する努力まで怠ってしまうのは、文明が衰弱した証でしょう。その意味では、小渕内閣の折に国旗掲揚・国歌斉唱を法制化したのは、保守・右翼の勝利ではなく敗北だったと思います。だって法=強制力に頼るというのは、つまり、議論して説得することを放棄したということですから。保守・右翼も、日教組を議論でやりこめることができなかったという意味では、実のところ、イデオロギーの衝突を回避する「人それぞれ」主義者の同類ではないですか。その意味で、テロリズムってのも安直だと思いますね。

過日新宿で、耳を覆いたくなる汚らしい旋律で「君が代」を歌う一群に遭遇しました。プラカードを見る限り「保守」を名乗っていましたが、あんな歌いっぷりは国辱ものです。あんまり情けなくて泣けてきました。もしも私が「そんな君が代があるか!」と一喝したら、きっと彼らは「ブサヨw」とか「ミンス工作員乙www」とか「うーじむしをー、たーたきだせー!」とか罵って恫喝してくるんじゃないですか。右翼の諸君も「海ゆかば」くらい、テープで流すんじゃなくて、自分で朗々と歌いながら街宣してはどうですか。本当に、愛国心も低く見られたものです。愛子様をいじめるクソガキは即刻学習院を退学させるべきなのに、なぜかそういう正論は聞こえてこなくて、皇太子殿下と雅子妃殿下の教育が悪いと暗に語るような、恐れを知らぬ世論もあるようですね。戦前だったら不敬罪ですよ……。

閑話休題。若者・子供のために、私も小林よしのり氏を見習って、自分の信じるところを主張する頑固者でありたいと感じた次第であります。