静岡県教育委員会が主催する教員初任者研修会の「身体表現活動」と題されたワークショップをSPACで引き受けることになり、小中学校教員の部でファシリテーターを務めることになりまして、富士山の新五合目(?)にある研修施設に出かけて参りました。アシスタントはSPAC女優のたきいさんと布施さんに頑張ってもらいました。

ワークショップ受講者である小中学校教員の総数は、なんと310名! 会場は広めの体育館ではありましたが、ひとりあたりの面積を割り算すると約2㎡という、満員電車並みの過密さでした。そして、与えられた時間はわずかに1時間! これは「簡単な仕事と難しい仕事では、難しい仕事を選ぶ」という最近の私のポリシーに見合った難題であったため、あえて喜んで引き受けてみました。

引き受けたもののなかなか具体的なイメージが浮かばず、仕方なく当日午前4時まで、開場である体育館の平面図と睨めっこしながら内容を考え、いつもならやらない作業ですけど、今回は一応1時間の時間配分を記入した構成表を作成し、ちょっとだけ寝て午前8時起床で出発しました。

内容をざっくり説明しておくと、前半20分が言葉によるコミュニケーションを実践するアクティビティ、中盤10分が声とその使い方についてのレクチャー、後半30分が身体表現を客観化するアクティビティでした。最後に、池田潔の名著『自由と規律』(岩波新書)の一節を引きながら、教員と俳優に共通する課題は声や言葉や表情や身体や感情のセルフ・コントロールであり、今日体験したことはその第一歩である、としめくくりました。

どうでもいいことですけど、いささか驚いたのは、『自由と規律』を読んだことのある人が1人もいなかったことです。私はてっきり、教員を志す人たちは当然読んでいるものだと思い込んでいました。まさかとは思いますが、ヤンキー先生や夜回り先生に憧れている人がいないことを祈るばかりです(笑)。

時間が短かったので初任者の人たちとお話ができなかったのが残念ですが、310人も相手にすると、さすがに教員を志す人のタイプが見えてきたのが収穫でした。つまり彼らは、男女問わず体力には自信があり、純粋に子供を愛するお兄さんお姉さんなのですね。「健康」という言葉が最もしっくりくる人たちだなあ、と感心しました。

アテンドをして下さった先生が「教員は5者であれ。すなわち、学者・医者・易者・芸者・役者」という言葉を教えて下さって、なるほどなあと思いました。そうかあ、学校の先生はオールマイティじゃなきゃいけないんだなあ。予備校の先生なんて、せいぜい学者崩れだもんなあ……。

短い時間でしたが、色々勉強になりました。関係者の皆さんどうもありがとうございました。次回も頑張ります。

近代社会の秩序に個々人を暴力的に参入させるのが、教育の負った役割だとして、芸術は、その近代的秩序から逸脱する力へと眼を向けるものではあります。そう考えると両者の間には埋めることのできない懸隔が存在するということになりますが、現在の両者の蜜月ぶりから顧みるに、そのような芸術観は前時代のロマンティシズムの残滓だということになるのかもしれません。21世紀以降、芸術は再び匿名性と実用性へと解消されてゆく。ただしそれを促しているのはポスト・フォーディズム段階の知識社会であり、そこでは誰もが「個性」を偽装する演技力を求められ、その「個性」を粉飾する手段の一つとして、芸術的な表現力が呼び出されるのでしょう。とすると、これは逆に、匿名性と実用性に回収しきれない芸術性の普遍化だと捉えることもできるのかもしれません。なにしろ今や、慎ましく平凡な幸福を追い求めようとしたところで、格差拡大によって「平凡」なライフスタイルを選択することができなくなってしまったわけですから。もはや「日本的経営」によって守ってもらえるのは中高年の正社員という特権階級のみで、多くの労働者は、雇用の流動化に対応してスキルアップを重ねて「セルフ・コントロール」「セルフ・プロデュース」「セルフ・ブランディング」に熟達し、自分で自分を売り込むしかない。個々人が分断され競争を強いられる、階級的連帯が不可能な、過酷な社会状況を私たちは生きることになってしまった。経団連=文部科学省が「新しい学力観」によって予見していた社会が、ついに現実のものとなったと言ってよいでしょう。

従って、私なども、大きく見ればポスト・フォーディズムの尖兵として働いているようなものですが、そこで自分なりの戦い方が見つけられるのかどうかは、まだ考え切れていないところです。