唐突ですが、学力と呼ばれる能力の中身について、考えてみます。

まず、現在の日本の学歴システムがそれなりに合理的にできあがっているということは、客観的な事実として認めるほかない、と私は思います。もちろん、学力で仕事の能力がどこまで計測できるのかは色々議論がわかれるところでしょうが、少なくとも、身分や門閥によって人材を選抜することに比べれば「適材適所」を実現しやすいはずで、その意味で、相対的に優れたシステムだと考えざるをえません。労働市場の需給均衡を実現しうるという意味では、学歴システムこそ近代社会の長所を体現していると言ってもよいでしょう。

だから、「学校で習ったことなんて社会に出たら役に立たない」とか「学歴で人間が決まるわけじゃない」とかいった類の物言いには、若い皆さんは警戒した方がいいですね。こういうきれいごとは、役に立たないお喋りの域を出ませんし、なにより、そう口にしている本人が「俺は学校だの学歴だのに頼ってないぜ。俺の腕っこひとつで今までやってきたのさ。実力さ」と、自分を大きく見せたいだけだったりしますから。実家にそこそこの資産があったから大学に入れたし、大学のブランドのおかげで就職できたので、今の自分があるのは両親の働きのおかげだ、つまり自分は運が良かっただけなんだ、自分ひとりの力で獲得できたものなんてほんのわずかしかないんだ、などと、真実を認めることは誰にとっても難しいというわけです。

では学力と呼ばれるものの実態は何かと考えると、直接的には記憶力や分析力や判断力でしょうし、またそれらのベースとなる集中力や行動力までも包括するものだと思いますが、もっと掘り下げれば、その本質は、集団への適応能力ではないですか。

だいたい学校で習う事柄の効用なんてものは、習っている当人にはまるで見当がつかないものでしょう。「なるほど算数はどんな商売でも役に立つのか。では、心を入れ替えて勉強しよう」などと合理的に判断して勉強する生徒など、皆無に等しいでしょう。実際は、勉強ができる生徒というのは、親や教師をはじめとする周囲の大人の期待に応える形で、「何の役に立つのかさっぱりわからないけど、これができるようになれば誉められるのだから、やっておこう」と、無意識のうちに選択しているのだと思います。こうした適応能力と、そこから派生して身につく学習姿勢に比べれば、実際に学習した内容が頭に入っているか入っていないかなど、大した問題ではありません。

実際、企業の中核を担いうる正社員(=幹部候補生)には「コミュニケーション能力」が求められている、とよく言われるようになりましたが、この「コミュ力」の中身もよくよく注視すれば、周囲に適応して「空気を読む」能力に尽きるのではないですか。上司に対して、取引先に対して、顧客に対して、相手の先回りをしてかゆいところに手が届く配慮(これを最近は「ホスピタリティ」と呼び、そのモデルを「コンシェルジュ」に求めたりするわけですが)ができるかどうかが、この国で「コミュ力」と呼ばれるものの実態でしょう。今なお、欧米人のように我を貫いて議論し説得し交渉する能力のことを言っているコトバではないわけですね。本当は「コミュニケーション」というコトバの意味は、後者が正解なんだと思いますけどね。

知識社会化が進み、どんな業種にもサービス産業の要素が入り込んでいるのが今日の状況でしょう(例えばPC販売で、サポート体制の充実が付加価値になるとか)。どんな会社も、元請けや下請けの顔なじみの担当者とだけ話していれば、商売になる時代ではなくなってきましたね。居酒屋で胸襟を開いて本音をぶつけあうことより以上に、初対面の相手に好印象を与えることが、ビジネスにとって重要になりつつある。つまり、これまで以上に、様々な仕事に精神的な「コミュ力」、すなわち「空気を読む」感情労働の要素が増えてきているということでしょう。繰り返しますが、こういう能力の多寡によって人材を選抜する装置としては、学校教育および学歴システムは、なかなか合理的にできているということになるでしょう。だって、「なぜ算数など学ばねばならないのか」という根本的な問いかけは「KY」に腑分けされるわけですから。それどころか、今の教育現場では下手をすると「学習障害」に分類されかねません。

息苦しいですねえ。実際、手を動かして作業をすること自体が億劫だという人は少ないと思うんですよね、日本人は手先が器用ですから。そうすると、企業社会のしんどさ、あるいはビジネスのしんどさ、働くことのしんどさって、こういう精神的な息苦しさにあるんだろうと私は思います。そして、一般に「自己実現」の度合いが高いと思われる職種ほど、「空気を読む」能力が必要になるんでしょうから、とすると、「自己」を実現しようとすればするほど「空気」の中へ拡散してしまうという、とんでもない逆説がここには存在するんでしょう。つまり「自己実現」というコトバの本当の意味は「自己が実現していると演じられるくらい他人に適応している」ということで、つまりこれは演技力のことを指しているのでしょう(笑)。

さらに言えば、演技しているのに、それが演技であることを自ら忘却できる人を指して、この国の人々は「幸せそう……」と羨んでいるわけです。さらにこの逆のパターンを指摘しておけば、演技することに耐えられなくなって、仮面とは異なった素顔が自分にはあると信じたくなった人たちが、この国では、仮面と素顔を使い分けるエキスパートである俳優を志すのです。もちろんその素顔とやらもまた、醜いナルシシズムの凝固した、出来の悪い仮面のひとつにほかならないんですけどね。