とはいえ「演劇」への違和感が消えたわけではない。


以前、カフカの長編小説『アメリカ』を戯曲化したことがあるのだが、そのエピグラフとして、道元の「青山常運歩」という言葉を掲げた。この『アメリカ』の主人公は、アメリカ大陸を積極的に旅して回るのではない。彼はむしろなされるがままにアメリカ中を引き回されるのであり、その様は、人物が移動しているというよりも、書割の方が動き続けているかのようである。カフカの小説のおなじみのパターンではあろう。思えば人間は、自ら選んでこの世に生を受けるわけではなく、気がつけばこの世に投げ入れられている、受動的な存在なのではあった。その有様を指して「青山常運歩」と形容してみたくなったのである。

そもそもドラマという言葉は「行動する」という語句に由来しているそうだが、西洋渡来の演劇というジャンルに対して私が抱く違和感があるとすればそれはまさしく、ギリシア悲劇のように行動してから悩むか、近代劇のように悩んでから行動するかという違いはあれ、いずれにしても、登場人物が〈行動する〉ことによって内容が成立する点にある。そして〈行動〉とは、無為を捨てて有意を選ぶという〈決断〉の結果であって、そこには個人の内心に発する〈動機〉が先行する。〈動機〉にしても〈決断〉にしても〈行動〉にしても、少なくとも現代においては肯定されている何かであって、だからこそ、その後に生ずる悲劇的結末に人は落涙し、喜劇的結末に人は安堵し、演者と観客は共感によって一体化するに至る。従って、およそ西洋的な価値観が定着した社会においては、人間の行動とその帰結を描く表現形式としての演劇の存在意義は、自明であると言ってもよいくらいだ。つまり演劇は、精神的規範として機能してきたのである。

だが、例えば前述のカフカのような作家は、〈動機〉を抱いた何某が、葛藤の果てに〈決断〉を下し、〈行動〉に移るというドラマを描かない。それを西洋人は「不条理」と名指したわけだが、それこそ道元禅師なら「不条理に非ず」とでも応じ、二重否定によってしか言いえない実相を暗示するところではあるまいか。あえて対照を描くとすれば、能に慣れ親しんだ貴族や武士が西洋演劇を見たなら、「さかしらな狂言に過ぎない」と一蹴したかもしれない。実際、夢幻能が描く生者と霊的存在との一瞬の邂逅に、〈行動〉などというわざとらしいモメントが入り込む隙はない。邂逅は邂逅であって、それ以外のものではない。

なぜこのようなことを書くかと言えば、これまで私は「人間的」で「感動的」な文学や映画や演劇に、山のように触れてきたはずなのに、年齢のせいなのか何なのかわからないが、ここのところ、その大半が色褪せたものとしか見えなくなってきたからである。そのかわりに、例えば、デヴィッド・クローネンバーグ監督『クラッシュ』という映画から得た印象が、じわりじわりと心に迫るようになってきた。あれほどに人間の〈心理〉という内実を欠落させた映画が他にあるだろうか。あの映画には〈心理〉ではなく〈衝動〉に身を委ねた人々の姿が描かれており、交通事故のさなかでなければエクスタシーが得られなくなった登場人物たちは、命がけの危険な遊戯を繰り返しながら、生と死、生物と機械の境界で〈自己〉を脱ぎ捨てようと試みる。道徳的には非難するしかないけれども、かといって、彼らは悪徳に身を染めているというわけでもない。この世を生きながら「善悪の彼岸」に立とうとしているだけなのだ。全くもって「人間的」でも「感動的」でもない。ネット上のコメントは、淀川長治をはじめとして罵倒の嵐である。だが、私に言わせれば「非人間的に非ず」である。

ところで〈自己〉とは、資本制を成立させるために欠かせないユニットである。個々の労働者に〈自己〉を管理する能力が備わっていなければ、近代的な産業労働は編成できないし、効率よい労働力の再生産も達成できない。だから、少数の芸術家たちによる〈自己〉を超出しようとする試みは、資本制にとって、駆逐せずにはいられない伝染病のように、不気味なものにとどまり続けることだろう。