DVDで、久々に再見。

最初に見たときは気がつかなかったのだが、これは明確にベトナム戦争をテーマとしたお話であった。汚辱にまみれた街に咲く一輪の花を見つけた主人公は、勇敢なる海兵隊員の過去を取り戻すかのごとく武装し、チンピラを皆殺しにしてその少女を救う。しかし実のところ、少女は「解放」など求めていなかった。だが皮肉にも世論はこの男を、ギャングから少女を救った英雄として祭り上げてしまう。そして事が一段落した後も、彼の眼には以前と変わらぬ狂気が宿っている……。デ・ニーロ演ずるタクシー・ドライバーは、ベトナム民衆から必要とされてもいないのに、反共を御旗に掲げて軍事介入し、挙句敗北したアメリカの姿そのものであろう。ネオコンの主張する「民主化」を大義名分として、アフガンやイラクに攻め入った現在のアメリカも、本質は何も変わっていない。

ところで、ここまでは誰でも書ける感想だ。今回気づいたのは、これがドストエフスキーの『罪と罰』を下敷きにしているのではないかということ。「ナポレオンのような英雄は他人を犠牲にしても赦される」という理論を構築した青年ラスコーリニコフは、自らの理論の正しさを証明するために、金貸しの老婆を殺害するが、自ら犯した罪に居直ることができず、熱病にうかされて街をさまよう。やがて彼は売春婦ソーニャに出会い、彼女の純粋な魂に触れたことによって、新たな人生を切り開く。

デ・ニーロのタクシー・ドライバーもまた、ジョディ・フォスター演ずる少女売春婦に出会ったことで、「何かをやりたいが何をやっていいのかわからない」という精神状態を脱し、使命感を見出す。だがそれは、全くもって彼の一人芝居であり、勘違いであり、余計なお節介なのだ。彼の眼に彼女は、純粋無垢な被害者と映っているが、彼女自身は、チンピラのひとりと愛し合う関係にある(このチンピラをハーヴェイ・カイテルが好演している)。

『罪と罰』とは対照的に、ベトナム帰りの青年は少女との出会いによってますます狂気を増幅させ、しかも世間は、彼を指弾するどころがナポレオンに仕立ててしまうわけだ。つまり『タクシー・ドライバー』の物語は、『罪と罰』の陰画ではないかというのが私の解釈である。「ラスコーリニコフただひとりが狂人なのではなく、むしろ、彼以外の人々がみんな狂気に取り憑かれていたとしたら?」というのが、ベトナム戦争の後に、マーチン・スコセッシが問いかけようとしていることだ。とするとこの映画で唯一の救いは、狂気を自覚しない世間の中で、ただひとり自らの狂気に気づいてしまった主人公が、自らのこめかみに指を当て、自殺をほのめかすシーンにある。ホー・チミンを悪魔と見立てた狂騒の中では、実際に戦場に赴き殺戮をおこなった兵士が抱く、かすかな良心の呵責にしか、救いはない――この映画から読み取れるのは、そのような酷薄な認識だ。