月見の里自由大学「誰もが自己表現できる時代に、アーティストに残された役割とは?」終了。


月見の里自由大学シンポジウム「誰もが自己表現できる時代に、アーティストに残された役割とは?」無事終了しました。

始まる前は、5人くらいしかお客さんは来ないんじゃないかと言っていたんですが(東京でこのテーマでシンポジウムをやったって集客はそんなものだと思うんですが)、蓋をあけてみたら、20人ほどのお客さんが集まって下さって、ちょっと舞い上がりました。これは、月見の里学遊館の活動が、県西部で徐々に認知されつつある結果かと思います。だいたい私の問題提起は時代に先駆けますので、しばらくしたら、首都圏の公立文化施設が似たようなテーマで何かやるかもしれません。

平井洋先生は、クラシック音楽業界の様々なエピソードを披瀝されながら、プロのアーティストにしかできないことが厳然と存在していること、一方でそのような音楽文化を下支えする経済基盤(いわゆる音楽教室)が、少子化と不況によって解体しつつあること、ただITの更なる発展が新たな音楽文化の形成を可能にするかもしれないということ、を説得的に語られました。平井先生によるこのシンポジウムの報告はこちら

大野左紀子先生は、90年代以降、美術に取り組む人々の動機が、オンリーワンの自分を肯定してほしいという「私的」な承認欲求へと変質したこと、その根底には、日常的なコミュニケーションに疲労して新たなコミュニケーションを芸術に求めたいという心理が働いていること、しかしそこで芸術が入り口とはなっても出口にはならないこと、を鋭く指摘されました。大野先生によるこのシンポジウムの報告はこちら

あっという間に時間が来てしまいまして、もっとお二方のお話を聞きたかった、というのがどなたもお感じになったことだったと思います。ぜひまたお招きしたいと思っております。平井先生、大野先生、ご来場いただいた皆さん、どうもありがとうございました!

また、このシンポジウムの後で開催された、ウェールズ弦楽四重奏団によるコンサートも、大変素晴らしいものでした。あんなに飾り気のない、邪気のない、清冽な響きのベートーヴェンはなんだか新鮮に感じましたし、またシューマンは気迫に満ちていて、圧巻でした。

さて、シンポジウムの最後に大雑把な総括をしたのですが、言葉が足りませんでしたので、改めてここで、シンポジウムの内容を受けて、今私が考えていることを記します。

まず、誰もがわかっていることを改めて書きますが、現代社会においては機械化・分業化・専門化が進んでいる。古めかしい言い方を借りれば「労働の疎外」が全面化している。従って、このような社会では「手作り」感覚が、疎外された労働を本来の形へと回復させる(ような幻想を与える)わけですね。昨今のDIYブームや手料理ブームは、もちろん第一にはデフレ不況のせいでしょうが、それだけではなく、「手作り」への欲求が潜在していると見るべきでしょう。浅羽通明氏の指摘する「昭和30年代主義」も、背景はそういうことだと思います。そして、やはり同じ背景から、特定の個人(=作者)が他人の手を借りずに作品を仕上げる、芸術への根強い憧れが発生している。

芸術は、理屈の上では、不特定多数の人々に享受されうるものですから、個人は作品の全体に関わり、さらに、作品は社会の全体に関わるという形で、個人のエネルギーが作品を媒介として、同心円を描いて社会全体に波及するという夢を実現してくれるわけです。しかしそれもしょせんは幻想、と言って悪ければ、現代社会におけるガス抜きの装置でしょうね。だいいち、農業中心の社会では、芸術の存在は特権化してはおらず、ただ無名の職人の技術が存在していただけでしょう。芸術家は時に機械化・分業化・専門化を批判しますが、それらを抜きにしては芸術の存在意義もまた失われてしまうはずです。

しかもややこしいことに、ある芸術作品が大衆に受け入れられるときは、まず間違いなく、作品そのものの内容ではなく、芸術家の人格に対する精神的な転移が生じている。作品の価値を作者の価値が追い抜いたとき、ヒットはメガヒットに転ずると言ってもよい。機械化・分業化・専門化を超越した(ように見える)生き方への憧憬が、芸術家をスターの地位に押し上げるわけです。

ところで現在、ブログ・SNS・ツイッターといったインターネット上のツールは、最大でも数百名規模で趣味判断を共有する人々が情報を交換する、ヴァーチャルなスモール・コミュニティを生み出していますね。大衆的に憧れを喚起するカリスマが生まれる一方で、このようなスモール・コミュニティ内部でのみ成立するプチ・カリスマが、あちこちで生まれつつあるのかもしれません。いわゆる「島宇宙化」ですね。同好の士からリスペクトを集める程度の存在であれば、代替可能であり、誰もがカリスマたりうる可能性が開かれますね。もちろん全員に代替可能となるとオンリーワンではなくなってしまうので、精神的には満たされなくなりますが、ともあれ、プチでしかないカリスマに憧れることで充足しておくのが、俗に言う「価値観の多様化」が進む社会を生き抜く秘訣だということかもしれません。ストリート・カルチャーやクラブ・カルチャーが、そのような「島宇宙」「コミュニティ」「トライブ」における相互承認の形態を先取りしているのかな、という気もします。あるいは「ジモティとしてのヤンキー」が形成する人間関係もそのようなものでしょう。今やそれが、ヴァーチャルな次元で万人に可能になったということですね。ということで、ヴァーチャル・スモール・コミュニティにおいてメンバーを惹きつけるプチ・カリスマ、というのが、とりあえず私が出した、シンポジウム表題に対する答えです。

まあ確かに、この世の主人公でありたいという欲望をそこそこ充足させるのが、健康なふるまいなのかもしれませんね。しかし本当のことを言うと、現代社会では(あるいはどんな世の中であれ?)、プチであれ何であれ、ある個人が主人公たりうるなんて幻想でしょう。我々の生は「核による大量殺戮」を留保されているだけだと考えれば、個人の価値など塵芥のようなものにしか見えません。中島義道さんが『生きることも死ぬこともイヤな人のための本』で、有名人願望を捨てられない若者に向かって「君は君が心の底では馬鹿にしている人たちに認められたいのか」と問うと、若者は「それでも認められたい、有名になりたい」と答えるのですね。こうなると病気です。キルケゴールが指摘する「死に至る病」です。他人と自分を比較して優位に立ちたいという、終わりなき自意識の空回りにとらわれることを、キルケゴールは「絶望」と喝破しました。そこから抜け出すには、神を信じるしかない、というのがキルケゴールが出した答えですけれども。ドストエフスキーの『罪と罰』ならば、殺人者ラスコーリニコフにおける娼婦ソーニャとの神聖な愛、ですかね。トルストイもやはり神を持ち出すでしょう。仏教者なら自己への囚われから解放されるべしと説くでしょう。いずれにせよ、承認欲求から自己実現へ、というマズローの発展段階説の最終段階には、終わりなき精神の地獄が待ち受けているというのが、哲学・文学が教えるところであります。ビジネスパーソンである諸兄姉は肝に銘じておきましょう(笑)。

しかし日本人としては、そこで信仰を持ち出されると困っちゃいますね。私がそこで思い浮かべるのは二葉亭四迷の『平凡』という小説であります。そこで二葉亭は、我が国の自然主義文学者たち、今で言えば「アーティスト」たちを徹底的にコケにしております。芸術家である以前に行動家であった二葉亭の面目躍如たるところです(この意味で、二葉亭の後継者は、太宰治を目の敵にした三島由紀夫だと言えるかもしれません)。塵芥のように吹けば飛んでしまう「平凡」な生き様を、何の衒いもなく肯定すること。私が今欲しているのは、そういう思想なんですが。芸術がそこで果たしうる役割があるとすれば、否定的媒介ってことに尽きるような気もするわけですが。そして、二葉亭四迷の大らかなユーモアが、「平凡」思想を形成する鍵なのだろうな、とぼんやり考えています。